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”無風帯”岩美町

尾崎翠の生まれた岩美温泉に来るのはこれで2度目。
でももっと何度も来たような気がする。
記憶を幾度も反芻していたためと思われる。

映画のセットのような、とても小さな温泉街。
前回はまだやっていた花屋旅館は閉まっていた。

大学を卒業した春に、重たい創樹社の尾崎翠全集を渡そうとしてくれた女性は、どなただったのか。結局わからずじまいだった。

共同浴場ゆかむり温泉の番台をしていたウエムラさんに、尾崎翠のことを尋ねていると、翠が生まれた西法寺の現住職の奥様とばったり出逢った。

ウエムラさんは、ゆかむり温泉の前の駐車場で煙草を吸いながら、西法寺にとりあえず行ってみたらと言う。
約束も取り付けていないため、西法寺にダメ元で伺うと、元住職がお忙しい時間を縫って、尾崎翠の人生について講義をしてくださった。寺院の静謐な一室で、実際に尾崎翠と会ったことのある元住職の話を聞いている自分が信じられない。

(この鳥取旅行では、尾崎翠にゆかりのある地を訪ねる意図があった。とはいえ、親類にあたる方々のお話を聞けるとは考えが至らず、学生気分であちこちにふららと伺ってしまったことを猛反省している)


西法寺前の道 ススキと柿が見える

元住職が小・中学生の頃、尾崎翠は鳥取に住みながら、度々この西法寺に参っていたそうだ。その当時、女性が煙草を吸っている姿を見たことがなかった元住職は、和装でうまそうに煙草を嗜む翠(50代)にびっくり仰天したそうだ。キセルに葉煙草を詰めて…なんてハイカラ。だが、翠が昔小説を書いていたことは知らなかった。

翠は声量のある方で、鳥取弁と東京弁とが混ざった話し方をしていたらしい。気になる髪質は…想像の中に遊ぶにとどまった。

7人兄弟の真ん中に生まれた長女で、上は3人の兄たち、下は妹たちがいる。翠は18~20歳に大岩尋常小学校の代用教員を務めていた頃、網代の道場で兄と下宿生活を送っていた。この時翠は、ともに下宿していた次兄哲夫の仏教哲学書を愛読していたという。
(私はこのエピソードを聞き、背中がぞわわっとした。私が『第七官界彷徨』を卒業論文として何とか形にしようとしていた頃、寺院で生まれたという翠の生い立ちに注意深くなれなかったことを悔やむ。)

昔は今のような勉強机もなく、翠も、この元住職も、みかん箱を机代わりに勉強していたそうだ。

今、岩美町で生前の尾崎翠を知るものはこの元住職だけだという。

わしももう間もなく死ぬるから。

とこぼした元住職は、翠の作品群の中でもデビュー作となった『無風帯から』を最も気に入っており、お説教でこの小説の一部を取り上げるほどだ。そこに描かれるのは「I村」と伏せられた岩美町であり、西法寺も登場する。

自分の故郷である西法寺を小説の中に残したかったのではないかと、元住職は翠の心中に想いを馳せる。

十年前まで、この岩美および西法寺には、私のように尾崎翠作品を題材に卒業論文を書こうという学生が1年に1人くらいは訪れていたという。


翠の生家 西法寺
境内から 鐘撞堂の裏あたりに家族が住んだ家があった

「岩井は、よう風が吹く土地であるのに、なぜ翠が”無風帯”という表現を用いたのか、それは一種の謎である」

西法寺からほど近い、翠の父・長太郎が勤務していた岩井小学校も見に行った。当時にしては珍しいヨーロッパ式の建築で、元住職は建物の保存のために奔走したが叶わず、今では朽ちるのを待つだけになったということだ。
今にも崩れ落ちるのじゃないかとびくびくしながら、でも、次に来るときはもうなくなっているかもしれないと思い、正面玄関口の割れた窓から中を覗き込んだ。


翠の父が勤務した岩井小学校跡
廃墟と化している
ハイカラな建築

岩美町には、鳥取にはこの時期特に柿が多く実り、そこら中にセイタカアワダチソウが繁茂していた。尾崎翠作品を摂取してきた私には、この景観こそが岩美のイメージとして相応しいように思われた。



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