見出し画像

私と素数と生と死と⑦(ADHD障害を持つ私の自分探しの旅)

1と言う数字は、素数ではない。(興味のある方はリンク先を参照してください。わかりやすく説明されています。)

数学的な意味合いにおいても1と言う数字は素数ではないので、ここで私自身を例えば素数とすると、1と言う数字は1という絶対に何者でもない唯一無二の整数として確立された存在なのである。

ドラマしかり、新聞やニュースや世間の話しかり、とかく母親と言う存在は子供にとって唯一無二の存在であり、唯一の味方だと思っていた。そう刷り込まれていた私は、イジメられていたという事実を声に出して叫ばなくとも、いや、いじめられているとは思わないにしても娘の態度がなんとなくおかしいと唯一無二の存在の親は私の少しの変化に気付いてくれるのではないかと思っていた。心の奥底では願っていたと言ったほうが今は相応しく思える。

「なんか最近元気ないね」とか「学校の話題しないね」など何かしら、私自身SOSを発していたはずである。それを必ず受け止めてくれる存在であると信じて疑わなかった。

しかし、残念な事に両親は私の変化には全く気が付いていなかった。

無理もないと言えば無理もないのだろうか?

中学時代は部活が終わり、学校から帰宅して直ぐに学習塾へ行き夜10時近くまで帰ってこない。夕御飯は当然一人で食べる事になる。

父や母、姉はリビングでテレビを見ながら談笑している中、冷めた晩御飯を一人で食べる悲しさ。お味噌汁を温めて食べたらと言われてももうそんな気力も残っていない。そんな家族の中でもひとりぼっちの孤独感を感じていた生活だった。学習塾以外でまともに誰かと会話をする事もない毎日がひたすら続いた日々だった。

孤独だった。

素数よりも孤独だった。

------------------------------------------------------------------------------

そんな生活を中学3年まで続け、私はすっかり誰かと交流すると言う事に疲れ果てしまっていた。3年生ではただただ毎日、目立たない様に、ただ成績が良いという理由だけで選ばれたクラス委員を黙々とこなし、しかしクラスの意見をまとめる事も出来ない私は神輿のようにただそこにいただけで、実際の所は先生が決めた先生のお気に入りの生徒が手足となって活動してくれる。私はただ名前にはんこを押すだけの、窓際にいるサラリーマンと対して変わらない人間だった。

私が中学の時代は、世の中的にはいわゆる荒れた中学時代真っ最中で、歌で言えば尾崎豊さんの「15の夜」がRESPECTされていた時代の終わり頃である。私の学年は落ち着きを取り戻していたが、それでも同じ学年の同級生の兄姉先輩たちが卒業後、いわゆるお礼参りと称して、よくバイクで校庭を走っている事もチラホラと聞く時代でもあった。そんな先輩達の対策として県下で最も恐れられていた教師面々が揃った学年だった。

忘れもしない、入学式。隣のクラスの先生が最も恐ろしく、親がいる前でも列を乱した生徒に張り手をする程、今思えば横暴がまかり通っていた時代だった。最初の地理の授業の時に地図を持ってきていない生徒を男女区別なく拳骨で頭を叩き、私は恐怖におののいていた。それ以来、私は地理が大嫌いになった。怖さのほうが勝り、授業に集中できないのだ。

中学では3年間同じ先生達が持ち上がりで担当になるので、クラス替えこそあったものの、実際に授業を受ける先生はなんら変わらない。3年間、先生たちにも怯える毎日だった。

修学旅行での出来事である。起床後にラジオ体操、朝食を取っていると、数名の先生が見当たらない。何をしていたのかと言うと、その間に生徒の部屋に無断で立ち入りをし無断で荷物検査(ボストンバッグの中まで)していたのだ。夜に別部屋に連帯責任で呼び出された(大多数の生徒)はそこで、暴力を目の当たりにすることになる。なんと、ラジカセやゲーム機などを持ってきた生徒をスリッパでひっぱたいた挙句に「お前らを打つ手なんてない、スリッパで充分だ!」と言ってスリッパで殴り床や壁に叩きつけたのである。今なら勿論暴力教師として教育委員会へ報告、もしくは弁護士をたてて裁判沙汰にしても十分勝てるであろう。しかし、当時は教師や親の存在は絶対的なもので、どんなに理不尽な事をされても、親にも先生にも逆らうことは許されなかったのである。権力と暴力。その2つを手にした教師は子供達の人権を奪っていったのだ。

そうやって常に私は中学時代、大人達の顔色を伺い、先生の機嫌がどうかを気にして授業を受け、例えどんなに大人が悪くてもじっと嵐が過ぎ去るのを待つしか出来ない子になってしまった。全ては内申点の為に。【内申点】。人質を取ったかのような人の弱い心に付け込んで、支配する、暴力的な言葉だろう。人の心を壊すのに相応しい道具を手に入れた教師は、絶対に自分の心を無防備で曝け出してはいけない存在なんだと、深い傷を負わせるに充分だった。

大人になんかなりたくない。
大人は卑怯だ。

その頃の私は、心の均衡を保つ為に全て家庭内で空想に耽る時間と読書をする時間、勉強をする時間を持つことで、なんとか綱渡りをしていたのだと今になって思えるのである。それぐらいギリギリだったのだ。

続く。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?