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いま一度、宗教者の姿勢を問う~戦争絶滅受合法案

(2012年1月18日「松ちゃんの教室」ブログ記事再掲)

 かねてから殉教者の顕彰に対して異を唱えてきた高橋哲哉氏(東京大学大学院教授)が、震災から間もなく発行された緊急増刊「朝日ジャーナル」で「原発という犠牲のシステム」と題して寄稿している。

 氏は、「原発事故の被災者自身が、事故収束のため過酷な末端労働を担わされている」実情と、被曝死者が出れば靖国神社の「英霊」のように「尊い犠牲」として顕彰し、「尻拭い」を強いるという「完全無責任体制」を糾弾した上で、前世紀の初めデンマークの陸軍大将フリッツ・ホルムが提唱した「戦争絶滅受合法案」について紹介する。

 それは、地上から戦争をなくすために考案された法律で、戦争が開始されたら10時間以内に、次の順序で最前線に一兵卒として送り込まれるというもの。

第一、国家元首。
第二、その男性親族。
第三、総理大臣、国務大臣、各省の次官。
第四、国会議員、ただし戦争に反対した議員は除く。

 そして第五が、戦争に反対しなかった宗教界の指導者。当時のヨーロッパで、宗教者がどのように位置づけられていたかを如実に物語る。

 戦争は、国家の権力者たちがおのれの利益のために、国民を犠牲にして起こすものだとホルムは考えた。だから、まっさきに権力者たちが犠牲になるシステムをつくれば、戦争を起こすことができなくなるだろう、というわけだ。
 この段で原発事故を考えれば、どうなるか。……大事故の際にはまっさきに、次の人々が「決死隊」として原子炉に送り込まれる。内閣総理大臣、閣僚、経産省等の次官と幹部、電力会社の社長と幹部、推進した科学者・技術者たち。原発を過疎地に押しつけて電力を享受してきた(筆者を含めた)都市部の人間の責任も免れない。

 時代や国柄が違うとはいえ、ここに「宗教界の指導者」は入らないのだろうか。そして、私たち宗教メディアを含む一信徒の責任は? それとも、「戦争と原発は違う」という言い逃れが可能なのか?

 同様に、年頭の「週刊金曜日」に掲載された辺見庸氏のインタビュー「むき出しにされたこの国の真景」も、胸に刺さった。

 問題は国家権力だけではありません。われわれなのです。大震災発生のあと、国家は誰が演出していたのでしょう。ある日突然みんながわざとらしく作業服みたいなものを着出すとか、被災地を天皇や皇太子が見舞うようにするとか。テレビやラジオがCMを自粛し、地域共同体は祭りを取りやめたりね。ああいうことを演出しているのはじつは国家権力だけではないのです。国家権力に強制されたわけでもないのに、自分たちでやってしまう。
 ……もう一度言いますが、われわれは戦争協力記者や戦争協力詩人や戦争協力作家、戦争協力農民や戦争協力クリスチャンたちの末裔だということです。例外はないのです。自分の父母、祖父母は違うなどということはありえない。その歴史と血を負うたわれわれが今、個としてどのように振る舞うのか、何を表現するのかということです。

*太字は引用者

 改めて確信する。もはやこの国で、この問いから免れ得る人は、誰一人いないはずなのだ。

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