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原点としての「丸刈り」闘争(1)募る不満~立候補

(2011年1月10日「松ちゃんの教室」ブログ記事再掲)

 小学校ではもっぱら先生の言うことをよく聞く、優等生タイプの「いい子」だった。それが、中学を卒業するころには学校にも教師にも大きく失望し、それが行く行くは大学で教育学部に入り、自ら教員を目指す原動力にもなった。いま思えば、「丸刈り」校則に象徴された学校システムや、オトナ社会との「闘い」は、一教員を経てジャーナリズムに携わることとなる私の歩みの原点でもあった。実家で発掘した中学当時の文章も交えながら、この場を借りて改めて振り返っておきたい。

 特に何の疑問も抱かず、安穏と過ごしていた学校生活に転機が訪れたのは中学2年のころ。それまで抱いていた校則への不満を、友人宛の回覧文(授業中に生徒間で回す「お手紙」)に書いたのがすべての始まりだった。

 その不満の対象は、大きく出席番号が書かれた胸のゼッケン(校内で常時着用するジャージに刺繍)、制服、そして男子全員に強要されていた「丸刈り(3分刈りまでの短髪)」である。ちなみに女子は「前は眉、後ろは肩に触れない程度のショートカット」(校則「身だしなみ」の項より)。

 この頭髪規制は、戦後の学校教育から連綿と受け継がれてきた経緯があり、1980年代半ばには、全国でおよそ33%の中学校が実施していたという記録もある。特に80年代に社会問題化した校内暴力などの「荒れ」に対処する名目で強化された、管理教育の象徴的存在でもあった。

 福島県以外にも、「東の千葉、西の愛知」との「悪名」をとどろかせた2県のほか、兵庫、鹿児島などの地域が、保守的で校則も厳しいとされていたが、中学在学時の資料によれば、市内の全中学校で「丸刈り」を実施していたのは福島市と鹿児島市だけだった。

 90年代以降は、憲法、子どもの権利条約、教育基本法のいずれにも抵触し、子どもの基本的人権を侵害するおそれがあるなどの理由から、ほとんどの中学で撤廃されてきた。当時はまさに、その過渡期であった。

 同様の不満は多くの同級生が抱えていたが、教師に面と向かってそれを口にする生徒はいなかった。一時は勢いのあったいわゆる「不良」の残党も数年前に卒業し、私たちのころは比較的従順で「大人しい」学年が続いていた。「不良」になってまで反抗する理由もなく、頭髪自由化のための闘う術を持たない私が、手っ取り早く訴える手段として選んだのが生徒会役員への立候補である。

 形ばかりの選挙はあったが、「明るい学校生活」「オアシス(あいさつ)運動の推進」などという似たような公約を掲げる候補者の中で、「意見箱の設置」と「校則改正」を誓うという前代未聞の演説をぶった私は、大差で当選した。

 これでようやく学校側と対等に話ができる。応援してくれた級友と喜びを分かちながら、改めて公約実現に向けての決意を固くした。


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