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「無償の愛」とは子どもから親への愛のことだと思う

虐待された子どもたち

虐待件数が過去最悪になっている。
虐待されている子どもたちは、みんな自分を傷つけるママパパのことでさえ、受け入れ愛している。そして愛してもらいたいと願い続けている。
それが、死ぬまで叶わないとしても。

虐待によって命を落としてしまった子どもたちを思うと、その無念さに胸が押し潰されそうになる。だって、その子たちはきっと最期まで親を信じて愛していたんだから。

「親は子どもに無償の愛がある」などという言葉は幸せな家庭に育った人の体験でしかない。
無償の愛を注いでいるのは、むしろ親ではなく子どもたちの方だと思う。


「毒になる親」

スーザン・フォワードの「毒になる親」という本がベストセラーになってから、"毒親"という言葉が世間で使われるようになった。この本がベストセラーになったり、毒親という言葉がこんなに知れ渡るということは、そう感じている子どもがこれだけ多くいるということで、私はその事実に驚いた。

そして、この本のおかげで、私はかなり救われた。
「親には無償の愛があるはずだ」とか、「自分の子どもを愛さない親なんていない」とかいう価値観によって、親は間違っていないと子どもたちは思っていた。(そうでなくても、子供にとっては世界の全ては親しかない。)
つまり、もし自分が親から愛されていないのならば、悪いのは親ではなく自分だ、と思い込んでしまうことになる。

声を大にして言いたい。
子どもだった頃のあなたは、子どもたちは、絶対に悪くない。
悪いのは虐待をする親の方で、子どもたちではない。

親のすべてが、子どもに無償の愛を持っているとはやっぱり言えない。
でも、子どもにはあると思う。自分の親がどんなにひどい人でも親を愛することをやめられない。
だから、無償の愛を注いでいるのはいつも子どもだ。親を愛して、親を救おうとして、どんな時も親に愛されることだけを求めて生きている。


親を否定することと自分を肯定すること

虐待された子どもたちは、親を許そうとするし、頭ではそうすることもできるだろう。親も未熟で、仕方なかったことなんだと。
でも本当の意味では許すことなんて出来ずに苦しむことになる。
なぜなら、親を許すことは自分を否定することになり、自分を肯定することは親を否定することになるから。

私は、親を否定するところから、自分を肯定するスタートラインにようやく立てたと思う。
やっぱり親は、私にひどい言葉を投げつけるべきではなかったし、殴るべきではなかったし、笑い物にして私を頭のおかしい問題児として扱っていいはずはなかった。
つまり、親は間違っていた。
感謝することはできるけど、許すことはできない。でも、それでいい。
私は悪くなかった。子どもだった私には、何もできることがなかったし、虐げられる理由はなかった。私は悪くなかった。私のせいじゃなかった。

こう思うまでに30年以上も経ってしまった。
私は悪くなかったんだよ。

これが今私を取り戻してくれる言葉になっている。

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