見出し画像

初心

 その男は都会の喧騒の中に生を受けた。生まれてこの方、自然の緑は常に遠く、コンクリートのジャングルに育て上げられた。生来精神軟弱で、それがため、多くのインスタントなもので本心を覆い隠すのが癖になっていた。また、手間を嫌った。都会に溢れる玉石混交の常識のノイズは、まるで神経毒のように男を無意識のうちに麻痺させる。比べたがる周りに男も負けじと自己を主張するも、だんだんと精神は擦り減り、ある日居場所を求めている自分に気が付いたとき、荷物をまとめて田舎行きの電車に飛び乗った。

 イヤホンで耳をふさぎ、他の乗客とはなるべく目を合わせない。都会にいたときは無意識にしていたことだ。各駅に着く度に、ひとりまたひとりと車内から人がいなくなる。もう周りに誰も見えなくなると、男はようやくイヤホンを外した。何か小さなつっかえが取れたような気がして、軽く背伸びをした。向こうの窓には自然の緑が見え始めていた。どういうわけか心がざわつき始め、無性に叫びたくなる。しかし、そんな産地不詳の衝動をなんとか堪え、男はつまらなそうな顔をしてぼーっと窓の外を眺め続けた。

 降りる駅は直感で決めた。バックパッカーのように大きなリュックを背負った男の出で立ちは、このあたりでは珍しいらしかった。切符をきる駅舎の男から、同じ駅で降りた若い女や待ち合わせていた父親らしき中年からも、怪訝な目線をいただいたが、見て見ぬふりをして歩き続ける。上着を羽織る男に、半袖短パンの少年は覚えたての拙い「ヘロー」を言って元気よく走り去る。片手を上げるだけの挨拶しかできなかった男は、少し惨めな気分になったが、それでも不思議と笑みがこぼれていた。

 適当に乗ったバスは畦道を横にして走った。しばらくいったところの適当な停車場で降りる。いい加減にではなく、あくまで適当に。降りたのは男の他に誰もいなかった。その停車場の裏は小高い丘になっており、その頂上まではくねくねと獣道が続いていた。駅を出たときはまだ真上にあった太陽は西に傾き始め、形のあるあらゆる物の影を伸ばしている。耳を澄ませなくとも聞こえてくる虫の音が、こんなにも心地よいものかと男は静かに感動する。「ありがとうございました」という言葉が無意識に出たのは何年ぶりだろう。感謝された運転手は黙って微笑みを返す。それから男は少年心に軽い足取りで、その獣道を登り始めた。停車したバスはそんな男を見送るように、しばらくそこに留まっていた。

 予想よりも急こう配な獣道に息を切らせながらも、歩みは止めなかった。疲れを感じてはいたが、むしろ歩き続けたかった。手間を嫌っていた男は、そうして今までを振り返りたかった。多くの物で溢れていながらも、心の充足感は満たされぬまま生きてきた人生だった。呼吸のテンポが早くなる。無駄に大きい背中の荷物は、過去の自分の生き方の代償のように、男に重くのしかかる。清々しく流れる汗は、ノイズまみれだった男の身体をその塩分で清めているようだった。頂上が近くに見える。太陽はすでに西の雲を赤く染め上げはじめていて、男を急かすように燃えていた。ついに男はリュックを脱ぎ捨て、一気に頂上へと走っていった。

 男は心の底から叫んだ。何を叫んでいるのか、男も分かってなどいなかった。それは電車の中から抑えていた衝動であり、頂上へ来るまでの間に何倍にも膨らんで、そしてはち切れていた。周りがなんだ。常識がなんだっていうんだ。風に乗って鼻腔に届く草の匂いや、踏みしめて鳴る土の音だ。それらは、男の人生に足りなかったものだった。何も持たずに頂上で叫び続ける男の心は、充足感で満たされているようだった。

#psychonaut #psychonote #毎日note  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?