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「ありがとう」は不要?感謝の気持ちを伝えない、ベトナムのステキすぎる文化。


この前、なにげなく見ていたベトナム語チャンネル。

そこで、ベトナム人You Tuberの方がこんなことを言っていた。


ベトナムの人って、普段あまり「ありがとう」を言わないんです。


え、ええ?!なんで?

洗濯物を干していた手が、ピタッと手が止まった。

何かしてもらったら、ありがとうを言う。てか言わないと失礼でしょ!ってつい、心の中でツッコミが入れながら。

私の母はしつけに厳しかったから「手伝ってもらったら、必ずお礼を言いなさい」ってよく怒られた。こんな風にきっちり日本式教育を受けたわたしからすると、しっくりこないと言うか、ピンとこない話だったからだ。

ありがとうを言わない。

じゃあ何かしてもらったときになんて言えばいいの?てか、本当に言わなくていいの?一体どういうことなんだろう。。。

洗濯物を急いで干して、集中して見ることに。

「ありがとう」をあまり言わないのは、ベトナムの文化にあります。


ベトナムは、とにかく「農民」が多い。そのため人々が密接に関わりあって生活をしていて、今でもお互いを助け合う文化がある。

特に親しい間柄であれば、その人のために何かをするのは当たり前。助け合いが浸透している国だからこそ、自分に何かされても特別なことではない。

だから「ありがとう」を言わないそうだ。


そうだったのか・・・。

日本とベトナムの「考え方の違い」に直面するのは、初めてだった。



日本では「親しき中にも礼儀あり」なんて言葉がある。

その言葉のとおり、挨拶と同じくらいお礼の言葉は欠かせない。

何かしてもらったときは必ず「ありがとう。」と言うし、逆に言わないと失礼に値するだろう。

誰かに助けてもらうことは、決して当たり前ではない。

特別なことをしてもらったときには、お礼の気持ちを述べるべき。そんなかっちょいいサムライソウルが、日本人の根底にはあるのだ。

誰かに助けられることは「特別」だから言葉にする日本と、
誰かに何かをしてもらうことは「日常」だから言葉にしないベトナム。

相反する考え方だけど、両者の価値観は納得できた。郷に入れば郷に従え。どちらもリスペクトしたい。


そういえば実体験で、思い当たる節はあった。

わたしの学校では昼ご飯をみんなで一緒に食べるんだけど、いちばん下っ端のわたしのご飯をよそってもらったり、なんなら食器を片付けてもらうことがよくある。

その度に「Thank you」と声をかけてくれていたけれど、ベトナム人同士の「ありがとう」はほとんど聞かなかった。

その裏には、お礼の気持ちを言葉で表現するのではなく、「あなたがやってくれたからわたしも何か助けます」という暗黙の了解的なものが成立していたのだろう。

なんだか、、、深い。



他にもエピソードがないか気になりはじめて、ベトナムの助け合いの文化について調べてみることにした。

そんなとき、ある記事を発見した。

これが、本当に衝撃的だったのだ。


記事の内容は、ある飲食店の店頭にて「無料バケット」と称して、無料でパンを提供している実態を取り上げているものだった。


この記事では筆者が体験した「助け合いの文化」の話が紹介されていたのだが、その中で一人のベトナム人女子大学生が取り上げられていた。


彼女は、けっして裕福な家庭ではない。

それなのにホーチミン市内の貧しい家庭に、生活用品を毎週届けていたそうだ。

「自分も貧しいのに、なぜこんなことをしているか?」疑問に感じた筆者が尋ねたところ、以下の答えが返ってきたそうだ。

 「『お金持ちになったら貧しい人に援助をしよう』という考えでは、いつまでたっても『まだ貧乏だから』と言い訳してしまうと思う。
たしかに私は貧乏だけど、私よりも貧乏な人がいる。
だから、そういう人をできる範囲で助けます。きょう生活用品を届けた人たちも、自分たちだけで使っているんじゃなく、さらに貧しい人たちとシェアしているんです」


自分よりも貧しい人を「できる範囲」で助ける。

誰かに助けてもらって生きているのだから、自分も誰かを助ける。全ての行いは巡り巡るというが、まさにこういうことを言うのだろう。

自分が嬉しいと感じたことや有り難いと感じたこと、これらを循環させているのだ。


さらに、この話には続きがあった。

筆者は、さらに踏み込んで「政府に働きかけるようなことはしないの?」と彼女に問いかける。

たしかに、彼女が身を粉にして動くよりも政府が絡んだ方が長い目で見ても安定するし、いいはずだ。


すると彼女は、こう答えた。

「長期的にはそれも大切だと思いますが、彼らはきょう食べるご飯がなくて困っているんです。自分のできる範囲で、みんなが少しずつ助け合うなら、きょうからでも始められますよね」


大事なのは、自分ができる範囲は「自分でやる」ということ。

誰かにお願いして、その人任せにするのではなく、自分ができる範囲で助け合いを行う。

個々の力は小さいかもしれないけれど、それでもやる。今までの生活が1mmでもよくなるのであれば、助ける意味がある。そういうことなのだろう。

誰かを助けるって大それたことのように感じていたが、そんなことは決してないのだ。


難しいことなんて、考える必要はない。


自分にできること行動する。その大小なんて関係ない。とにかく「行動」に意味があるのだ。

ありがとうなんて言われなくていいから、自分が気づいたことをやる。

なんとも清々しくて、温かい。そう感じた。


これだけ助け合いが浸透している国、ベトナム。

ひょんなことから、さらに好きになってしまったじゃないか。


引用:日本新聞 ベトナムに息づく「自然体の助け合い文化」2016/06/02



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