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【映画評】 纐纈(はなぶさ)あや監督『ある精肉店のはなし』 不在と気配

 纐纈(はなぶさ)あや監督『ある精肉店のはなし』(2013)は、ドキュメンタリー・フィルムという形式における新たな光を見いだすことのできた作品である。新たな光とは、「不在」を出現させる、という意味においてである。この場合の「不在」とは、即物的な不在、つまり、〝見えないもの〟のことである。はたして、「不在」はどのようにして撮られるのか。

不在を撮ったからといって、不意に不在が現れるとはかぎらない。そのことは、イームズ・チェアで知られるチャールズ・イームズとレイ・イームズを描いたジェイソン・コーン/ビル・ジャージー『ふたりのイームズ』(2011)が明確に示しているように思える。
『ふたりのイームズ』を見た日のわたしのメモを読むと、本作品を
〝ある/ない〟のドキュメンタリー・フィルムという矛盾形式
として、『ふたりのイームズ』を辛辣に批判しており、こんなことを書いたわたし自身が少し驚いている……。

不在を撮った優れたフィルム、それは、邦画のドキュメンタリー・フィルムに見ることができる。たとえば佐藤真監督作品
『SELF AND OTHERS』(2000)
『エドワード・サイード OUT OF PLACE』(2005)

『SELF AND OTHERS』は36歳で夭折した写真家・牛腸茂雄(1946〜1983)の不在を、『エドワード・サイード OUT OF PLACE』はパレスチナ系アメリカ人である文学研究者・批評家エドワード・サイード(1935〜2003)の不在を撮ったドキュメンタリー・フィルムであり。
この2作品は、不在を出現させるには、必ずしも不在を撮る必要はないことを示している。目の前のものを撮ることで、不在を気配として立ち現せる(不在の実在化)ことができるのである。纐纈あや監督『ある精肉店のはなし』も、まさしくそのような作品である。

クランクインは屠畜シーン。本作を撮る数年前、何気なく屠畜見学会に参加した纐纈あや監督は、目の前の光景に圧倒されたという。その光景は、圧倒されたという心的現象にとどまらず、牛を殺すという眼前の光景の、その背後・向こう側へと眼差しを向ける契機となった。それは、対岸の原発建設予定地を見つめる『祝(ほうり)の島』を体験した彼女ならではの眼差しといえる。眼前の光景の背後・向こう側には何かが見える。
纐纈の作品からは背後・向こう側という本来なら見えないもの(=不在)が立ち現れてくる。

『ある精肉店のはなし』の場合、映画の主な舞台となった大阪貝塚市北出精肉店の先代の主人である北出静雄さんと、明治からいまだに続く部落差別である。北出精肉店は、牛の飼育から屠畜、解体、小売りまで、精肉にまつわるすべての行程を引き受ける、江戸末期から北出家に代々受け継がれてきた屠畜業の最後の家族である。
だが、纐纈監督は屠畜シーンや部落差別を撮ろうとしたのではない。牛をナイフ1本で解体する北出さんの家族を丁寧に撮ることで、動物への畏敬の念や謂れ無い差別の歴史が立ち現れてくる。映画を見た者は、動物の生命が恣意的に絶たれることを残酷と感じたり、食肉忌避となることはないだろう。それは、纐纈監督がインタビューで述べているように、監督の眼差しには「自分に見えた世界、自分が出会ったものから外れていかないようにする」ほどの禁欲的なものがあり、そのことで、背後にある不在が立ち現れることを可能にしているからである。それは彼女の身体感覚というものなのだろうか、不在が纏うイデオロギーや時間を意識的に露にしようとは決してしない。

纐纈監督には、撮るという意識は先行しない。北出家の人たちや、北出精肉店のある大阪貝塚市の集落に、ただひたすら寄り添おうとしているだけである。それは、監督自身が、北出家の人々や町の文化と共に在るということも含めての寄り添うということである。「三脚を立てて、できるだけその空間ごと撮る。そこに人がいなくても、そこで過去にどんなことが行われてきたとか、そこで聞こえてくる音とか、気配みたいなものが感じられれば、場所だけでも撮ってほしい」と、撮影の大久保千津奈さんにリクエストしたという。そうすることで、土地と人との関係性も立ち現れてくる。現在の北出家の家族や貝塚の町を丁寧に撮ることで、不在としての先代の北出静雄さんの気配や町が背負わされた歴史も立ち現れてくる。

目の前にあるものを丹念に撮ることでのみ、不在はあるがままに出現し、それと共に、イデオロギーや時間も立ち現れると、纐纈監督のドキュメンタリー・フィルムは告げているように思える。

(日曜映画批評家:衣川正和🌱kinugawa)

纐纈(はなぶさ)あや監督『ある精肉店のはなし』トレーラー



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