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【映画評】 増村保造監督『青空娘』、三澤拓哉監督『3泊4日、5時の鐘』。卓球台についての覚書

三脚に据えられた一台のカメラ。タイマーのジーという音とともに、シャッターが降りる。被写体となっているのは海岸の岩場に佇む三人の女子高生。卒業し、今春から社会人となる娘たちだ。これは増村保造監督『青空娘』(1957)の冒頭のシーンなのだが、女子高生のひとり、若尾文子演じる有子は、彼女が育った伊豆の小さな町から東京の家族・小野家の元に帰ることになっている。だが、彼女は家族の元に戻ることに怖さを感じている。有子は小さな頃からひとり家族から離れ、おばあさんのいる伊豆で育てられてきた。なぜ自分ひとりが家族から離れているのか疑問に思っていたのだが、おばあさんの臨終間際、本当の母親は別のところにいると告げられた。有子は、東京の家族の子どもたちの父親である栄一の愛人の子だったのである。東京の家族の元に戻ることの怖さはそのことによるのだ。

だが、『青空娘』は、若い女性の、悩みの深さを描いた作品ではない。記念写真撮影風景は、伊豆の海岸を背景とした、どこまでも青く透明な空の下の、青春娘の情景を表している。冒頭の写真撮影も、タイマーという、自己を離れた、他者の視線を思わせるショットであり、見られる存在であるという、青春の晴れやかな自己肯定でもある。ここには、増村保造の、地面を這うようなイメージとはかけ離れた、青々とした大空へと向けた屈託のない垂直な運動があり、そのことだけでも感動的である。有子が上京する直前、海を俯瞰できる岸壁に佇み、白いブラウスに赤いスカートをたなびかせる姿を下から捉えた眩いばかりのショット。背景には青空が広がり、東京でどんな試練が待っているとしても、それらを引き受けようとする自己肯定の意志、揺るぎない決断を感じる。

東京で待っているのは、愛人の子として、家族と認めようとしない家族。出張で父親・栄一が不在であることをいいことに、娘や兄弟として迎えるのではなく女中扱い。部屋がないからと、一階の物置部屋を寝室として与えられる有子。それでも有子は、毎朝眼が覚めると、窓を開け、空に向かって、「青空さんこんにちは」と挨拶する。ここでも、視線は上方へと向けられ、地にとどまろうとはしない。

義母と姉弟からの嫌がらせも決して拒否することはなく、一心に身体で引き受けようとする。次男の腕白中学生・宏との相撲でも手加減することなく宏を打ち破り、瞬く間に味方につける。さらに秀逸なのは、長女・照子のボーイフレンドである広岡(川崎敬三)との卓球シーンである。照子の誕生日パーティーの余興として開かれた卓球大会。広岡は有子の可愛らしさに気づき卓球に誘う。有子は女中だからと断るのだが、パーティー招待客に勧められ参加することになる。最初は広岡に負かされるのだが、サンダルを脱ぎ、女中としてのエプロンを取り、ひとりの女・有子として広岡とのラリーに挑む。それは挑戦といっても過言ではなく、素早いドライブやスマッシュの叩き込むようなスピート感のあるラリー。有子は瞬く間に広岡を打ち負かしてしまう。これは女中扱いされていることへの反逆ではなく、愛人の子であろうとなかろうと、有子であるという自己肯定の現れなのである。

自己肯定は有子ばかりではない。説話自体が自己肯定というか、肯定することで事態はスピーディーに進むのである。否定的事象も否定を肯定することで、事態は停滞することなく、説話にスピード感を与える。全ては予定調和に向かって滞りなく進行している。次第は決して停滞することはないし、何かが呼び水となり、物語は肯定へと向かってスピード感を増す。卓球の説話は広岡の有子への興味を愛へと移行させる、物語終盤では婚約という事態を迎えさせる。

肯定は二つの和解を生みだす。絵の先生であった二見(菅原健二)と広岡の活躍で、有子は実の母親・三村町子(三宅邦子)を発見することができ、町子は有子を見捨てたことを詫び、彼女らは和解する。そして、有子と町子は小野家と家族としての絆を切ることで、父親である栄一は、その妻・栄子、娘、息子たちと過去を和解することになる。絆を切るという家族の否定が、新たな家族、二つの肯定を生み出すのである。

伊豆に戻った有子たち。映画冒頭で見た伊豆の岸壁で、有子は「青空さん、さようなら」と大空に別れを告げる。「さよなら」という否定形は、新しい家族を手にした肯定形でもあるのだ。

『青空娘』と対照的な卓球を三澤拓哉監督『3泊4日、5時の鐘』で見た。『3泊4日、5時の鐘』の卓球のシーンである。この二作品は60年近い隔たりがあるがある。前者のラリーはスピーディーで肯定的な愛を生み出し、後者のラリーは時間を停滞させ、愛は破局を漂わせる。だが、破局という愛の否定は、不意の5時の鐘とともに救済を受ける。『青空娘』の卓球台によるスピード感を増す時間と、『3泊4日、5時の鐘』の停滞する時間という二種の時間。そして愛の救済。60年の時間の隔たりは興味深いが、変わらないのは、卓球台は物語発生装置であり、愛をめぐる装置でもあるということだ。

三澤拓哉監督『3泊4日、5時の鐘』は改めて論を起こしたくなるほどの魅力的な作品である。この作品は連続する数による恩寵である。5(あるいは6)から0へと回収されることで、0が恩寵の表象となる映画である。

(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)

三澤拓哉監督『3泊4日、5時の鐘』については

増村保造監督『青空娘』予告編


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