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【映画評】 連続する数による恩寵。三澤拓哉監督『3泊4日、5時の鐘』

三澤拓哉監督『ある殺人、落葉のころに』(2021)が上映されている。
この作品のプロデューサーの一人としてウォン・フェイパン(黃飛鵬)が名を連ねているのだが、彼は香港の10年後を描いたオムニバス映画『十年』(2015)の第2話『冬のセミ』を撮った監督である。女が男の身体を「記憶の標本」として採集する作品で、中国政府の圧力でやがて消えゆくであろう「香港の記憶」の採集をも意味する作品ともなっている。このような魅力的な作品を撮った監督がプロデューサーである映画『ある殺人、落葉のころに』。三澤拓哉監督とウォン・フェイパンとのタッグによる作品ということだけでも好奇心をそそるではないか。さらに、本作品は湘南の大磯を舞台にしながらも、日本映画の枠を超えたアジア映画(日・香・韓)としても意味深い作品となっている。

『ある殺人、落葉のころに』について述べたい気もするのだが、わたしにとり、三澤拓哉監督作品といえば茅ヶ崎を舞台にした『3泊4日、5時の鐘』(2014)を忘れることはできない。5・6年前に書いたレビューなのだが、修正を加え、ここに再掲載したい。

三澤拓哉監督『3泊4日、5時の鐘』について
本論は時間の変移を物語の生成に引きつけてとらえるものです。

(ストーリーに触れています)
最初に海岸のショットがあり、それからテニスコートや幾つかのショットが続き、街の情景が完結なカット割りで映し出される。この街の空気はどこまでも澄んでおり、夏の光はなんて美しいのだろうかと思う。そして電車の走行を捉える簡潔なショットが挿入され、物語へ登場するであろう人たちの到着を告げているかのようだ。

それに続き、8月31日の日付の提示と子どもたちの金魚鉢のクローズアップ。夏休みの終わりを告げるかのように旅館を去る家族連れ、そして彼らと入れ替わるように学生たちの団体客が訪れる。
ここは茅ケ崎館という旅館。フレームに白地の大きな暖簾と玄関を掃除をする若い男。男は、宿泊客を迎える準備をしている。

映画冒頭から、なんて端正で心地よいリズムのカット割りなのだろう。時間はなにものにも遮られることなく、水のように流れている。久しく、このような時間の流れの日本映画を、わたしは見ていない。

茅ケ崎館とは、小津安二郎が、良きコンビであった野田高梧らと、『晩春』『宗方姉妹』『麦秋』『お茶漬けの味』 『東京物語』『早春』などの脚本を執筆した茅ケ崎の老舗旅館である。冒頭の小津作品を思わせる簡潔なショットの流れ……小津ほど細かなカット割りではないけれど……、それは、小津作品における時間は自然に流れているのだと、この作品を見ることであらためて認識させてくれる。時間が複雑に交錯する映画が多い中で、これほどまでに簡潔な時間の流れを示したのは、小津の常宿である茅ケ崎館を舞台にしたこと、つまりは、茅ケ崎館のフィクション化(これは小津監督のフィクション化をも意味する)を措いてないと思えた。わたしはこれら冒頭のショットの流れを見ただけで、すでに満足だった。

それは、小津的時間の反復に、日本映画の再現を見たというばかりではない。監督の三澤拓哉が、映画へ向うとする決意の表れを見るように思えたからである。そして、この作品のエグゼクティブプロデューサーであり、W主演の一人でもある杉野希妃の、アジア・日本映画であろうとする強い意思を、あらためて確認できたからでもある。

小津への参照でもある「時間は自然に流る」ということ。このことについてもう少し明確に述べておこう。
時間は通常、隠蔽され、意識には表れることはないということを、わたしたちは経験的に知っている。吉田健一著『時間』を模して述べるならば、時間は流れていくのではなく、我々が現にいるその場所にいると感じるにすぎない。そして、時間は流れるというよりも、〈動く〉、としたほうが適当である。このことは、小津作品よりも、『3泊4日、5時の鐘』に明確に表れる。この作品においては、自然に流れている時間が、不意にある種の運動を帯び、予期せぬ方向へ〈動く〉のである。予期せぬとは、突然に、と表現したほうが分かりやすいかもしれない。それは、男と女、女と女、というペアリングにおいて突如として動くのであり、時に激しい振動をも伴う。

二人のヒロインであると真紀(杉野希妃)花梨(小篠恵奈)。彼女たちは航空会社地上勤務の上司と部下の関係にある。勤務中は忙しく、相手の気持ちにまで意識が行き届かず、互いにストレスが溜まっている。そのストレスを解消すべく、かつて二人の同僚でもあった理沙(堀夏子)の結婚パーティー参加を兼ね、休暇を利用して茅ケ崎館にやって来たのだ。理沙は、茅ケ崎館のオーナーの娘。そして、真紀と花梨が茅ケ崎館を訪れる少し前、旅館の玄関を掃除するアルバイト学生として登場した知春(中崎敏)が通う大学の考古学ゼミ生の一行が、既に到着していた。これは、先述した、「電車の走行を捉える簡潔なショットがあり、物語へ登場するであろう人たちの到着を告げている」時間の自然な流れの人たちである。8月31日という日付の提示と学生たちの到着、そしてタイトル『3泊4日、5時の鐘』。これは夏の終わりの、数日間の映画であることを告げている。

さて、時間が予期せぬ方向へ〈動く〉ということ。それが最初に現れるのは、真紀と花梨が茅ケ崎館に到着したときである。玄関に出迎えたかつての同僚である理沙とアルバイト学生の知春。花梨は、知春が自分に視線を投げかけていることに気づき、キャリーケースを知春に渡す。そのときの、花梨の手が知春の手に軽く触れるシーンである。それは突然のクローズアップだった。フレームにはキャリーケースのグリップに添える花梨の手。そこに知春の手が差し伸べられようとするとき、花梨の手はグリップを素早く離れ、それと同時に、彼女の指は彼の手の甲に軽く触れるのである。花梨の手は現にそこにあり、彼女の手のフレーム外への移動と同時に、知春の触れられた手はその場所にあるのである。あるという静止した事態が、知春の心の静かな振動という時間を現出させる手のクローズアップである。手のクローズアップといえばブレッソンを思い浮かべる。ブレッソンにおいては物質の交換、あるいは価値の交換であるのだが、三澤監督においては交換作用ではなく、時間の、停滞をも含めた出現である。

実は、知春の手のクローズアップは、花梨と真紀の到着前に既にあった。玄関を掃除している知春が、床に落ちている一枚のトランプカードを見つけ、カードケースにカードを仕舞う仕草の知春の手のクローズアップである。この手のショットには、三澤監督の周到な計算がある。カードは裏を向いており、数は露わにされない。数はカードを特権化し、物語の発生素子ともなる。数をあらわにさせることで予期せぬ時間……これを運命と言ってもいいだろうか……が出現してしまう。いまは時間の進行を止めるべきである、時間が動くのを焦ってはいけない。花梨と知春との出会いまで待たなければならないのだ。彼らの出会いに先んじた時間の性急な動きは控えなければならない。三澤監督の、しばらくは時間を停滞させようという計算なのである。では、なぜ裏返ったカードを見つけ、ケースに仕舞うショットが必要なのか。それは裏返ったカードの背面には数があることをわたしたちは知っており、『3泊4日、5時の鐘』が数の映画でもあることを、カードにより暗示しようとしたのである。だが、数が物語に直接介入するのは終盤になってからだ。

さて、時間が動くという事態、停滞という事態は、花梨と知春の手の接触で示されたように、二者のペアリングにより、物語そのものとなる。ペアリングの露出と回避が時間の動きや停滞を生み出すのだが、興味深いことに、ペアリングを露出させることが必ずしも時間の動きを生み出すとは限らない。
真紀が扉の隙間から覗いた部屋での旅館のお手伝いさんと若者との接触シーン、そして理沙が剥いた果実を弟の宏太(栁俊太郎)の口に入れるという近親相関を思わせるシーンでさえ、時間の動きを見ることはない。先客の考古学ゼミ生の一行と真紀、花梨との物語としての出会いも、旅館近くの三叉路という地勢的すれ違いで回避させることで時間は停滞し、物語の性急な進行は控えられる。

三澤拓哉監督『3泊4日、5時の鐘』-4

二度目の時間の動きを見せるのは次のシーンである。
「せっかく休みとれたんですから、男の一人でも引っ掛けましょうよ」と言う花梨に、「あなたとゆっくり話し合いたいからここに来た」と真紀は叱責する。だが、真紀の忠告など意に介せず、知春を引っ掛けることばかり考えている花梨。ある朝、真紀は花梨と美術館に行こうと旅館で彼女を待っていた。だが、彼女は散歩に行ったきり戻ってこない。戻ってきたのは昼頃。真紀は、「あなたをずっと待っていた」「あなたのためにわたしの時間が台無しになった」、と花梨を責める。彼女は、知春が漕ぐ自転車の後部に乗り、二人で散歩していたのだ。「待っていた」「時間が台無しになった」と時間が停滞することで、逆説的にも物語が動くという奇妙な事態が発生する。真紀は「ゆっくり話したい」という時間の停滞を望んでいたにもかかわらず、花梨のせいで時間が停滞することに苛立つ。二重の停滞を呈示することで、二人の関係が動くという事態を発生させることになる。真紀は、動くことを忌避しているはずなのに。このプロットの呈示が、時間が動くという現象を加速させることになる。

さらに、彼女たちより先に到着していた考古学ゼミの指導教員の姿を真紀が見つけることで、真紀自身が動くという事態が出現する。指導教員とは、真紀のゼミ生時代の憧れの恩師であった近藤(二階堂智)である。このときから、真紀の時間は、過去の思い出へと遡ることになる。彼女はゼミ生の発掘調査に加わり、「くっついたり離れたり。一人二人くらい引っ掛けるつもりでないと」、とゼミ生たちにけしかける。真紀は、花梨と「ゆっくり話し合いたい」という存在から、学生時代の、ゼミ生であった時間と恩師の近藤への思いを反復する存在へと時間は動くのである。その変貌ぶりを、花梨は訝しく眺める。

三澤拓哉監督『3泊4日、5時の鐘』-2

その後、この作品に流れる時間が大きな動き、とりわけ、ペアリングの露わと思える磁場の出現を見せるのは、夕食後の、旅館の庭での卓球のシーンである。真紀は近藤に学生時代の思い出を語るのだが、彼はどこかよそよそしい。卓球台では、知春とゼミ長である学生・彩子(福島珠理)が向かい合っており、彩子は知春の球をまともに受けようとはしない。ラリーは続く由もなく、ついには、何かと決別したかのように、彼女はその場を立ち去る。茅ヶ崎館のアルバイトである知春は、考古学ゼミの学生でもあるのだ。彩子は知春に心を寄せており、彼と花梨との振る舞いに傷ついているのだ。そして、真紀が卓球に加わるが、彼女は近藤の姿がないことに気づく。

真紀は卓球をやめ旅館内に近藤を探す。調理場の扉を開けると、そこに理沙と近藤の抱擁を見てしまう。この露わともいえるペアリングの出現に真紀はショックを受け、怒りのあまりグラスに入った赤ワインを理沙の胸元に浴びせる。理沙もグラスのワインを真紀に浴びせる。夏の映画でありながらも、これまで抑えられていた色調での突然の赤は衝撃的であり、不意打ちのように出現する時間の動きは残酷ですらある。

「くっついたり離れたり」は真紀の言葉にとどまらず、この映画の人間関係そのものとなる。時間は不意に早朝の浜辺の情景となり、手持ちカメラの不安定なフレームで茫然自失したかのように茅ケ崎の海岸を彷徨う真紀の姿を捉える。真紀は知春に抱きかかえられ、知春のベッドに横たえられる。だが、ここでの時間はカオスそのものとしてある。目覚めた真紀は衣服に付着した砂をシーツの上に払い落とし、その場を去る。そして帰宅した知春は苛立ちを振り払うかのようにシーツの砂を払い落とす。

卓球台という物語発生装置は面白い。いや、発生装置というよりも、押さえていた気持ちが飽和状態となり、マグマのように表面へと湧出させる装置と表現したほうが適切かもしれない……増村保造『青空娘』の卓球台を参照すればいいだろうか……。そこでは身勝手な想いを相手に投影させ、相手を戸惑わせる。そのことで、人々の様々な思いは交錯し、どこにも集結することのない事態へと時間は動くのである。

三澤拓哉監督『3泊4日、5時の鐘』-3

だが、動くとは、事態の、このような撹乱でしかないのか。三澤拓哉は、恩寵とでもいうべき事態を露わにさせることで、動きを和解、あるいは救済へと集結させる。これも不意としか言いようがないのだが、真紀や花梨、そして考古学ゼミの学生たちが茅ケ崎館に到着して4日目、海岸での理沙の結婚パーティーのシーンとなる。
長いレンズで捉えたドレス姿の真紀のロングショット。彼女は海岸からこちらに向かって歩く。パーティー会場ではハワイアンの音楽に合わせフラダンスの余興。そして、冒頭の床に落ちていたカードの反復とも思える砂に埋まる1枚のカードの裏面のショット。そして花梨の出現。その間に、小津が使った火鉢に薬缶のショットが挿入されるのだが、これは、小津作品への眼差しというばかりでなく、小津作品における結婚という、「父」と娘の和解へのオマージュでもあるだろう。父親の登場しない『3泊4日、5時の鐘』に、父親を必要とする結婚式にこのピローショットは必要なのである。また、三澤拓哉にとり、小津とは、映画の「父」そのものなのである。

和解という時間がさらりと舞い降りたかのように二人でダンスに興じる真紀と花梨。これも火鉢と薬缶のショットがもたらすことによる恩寵と言ってもいいだろう。そして、ゼミ生による5、4、3、2、1、0の合図とともに6枚の凧が夕焼け空に舞い上がる。凧には「hauoli」の6文字が書かれている。「hauoli」はハワイの言葉で「おめでとう」を意味し、恩寵の呈示と言えないだろうか。
そして、舞い上がる凧とともに、童謡「夕焼け小焼け」のメロディーが響く。それは5時を告げる鐘であった。そこには、凧糸を手にする知春と彩子が微笑みながら寄り添う姿があった。数が物語に介入する美しいシーンだ。
タイトルの『3泊4日、5時の鐘』。この連続した数3、4、5は、ゼミ生により、5、4、3、2、1、0へと回収される。0とは恩寵の表象であり、とりあえずの到達点である。そして、トランプカードの反復、それも数の見えない裏面の反復による映画冒頭への回帰、映画のリセットでもあるのだ。つまり、次なる推移の試みとしてのリセット、と理解してみたい。

リセット後の三澤拓哉監督の新作である『ある殺人、落葉のころに』
1週間ほど前、「京都みなみ会館」で鑑賞。
イメージの断片の挿入による時間があり、それは時間推移の一意性ではなく多義へ分離するかもしれない物語構造を形成していた。
『3泊4日、5時の鐘』における時間が〈動く〉がより繊細かつ巧妙になり、監督の作劇術のしたたかさに心震えるのを覚えた。

(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)

『3泊4日、5時の鐘』予告編


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