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【映画評】 黒沢清『クリーピー 偽りの隣人』

クリーピー(creepy)とは「きみのわるい」という意味。背景や原因をつかめない不気味さ、まさしくサイコスリラーの真髄ともいえる用語である。本作の場合、サイコパス(反社会的パーソナリティ障害)であり、理知的・独自性の際立つ殺人である。
心理的・生理的(薬物等で)に他人を手中に収め偽りの関係を築き、自らも他人になりすますことで殺人を他者の行為となす。
黒沢清『クリーピー 偽りの隣人』CREEPY(2016)の場合、
隣人・西野になりすました男(香川照之)がサイコパスとしてのサイコキラーである。

人は真の恐怖において恐怖を真には自覚しない。恐怖から解放されたとき、はじめてその恐怖の真の恐ろしさを自覚する。サイコパスの支配下にある人は、まさしくそのような人のことである。

映画は特別な手法を使用することなく、実直にサイコスリラーを描いている。実直とはどういうことかといえば、殺人者の主観ショットや背後の恐怖という、サイコスリラーの常套手法を使うことなく、対象を客観的、実直に捉えることで、サイコパスの深部へと映画を見るものを誘う。ともすれば単調になるかもしれない手法の実直さを見せることで、猟奇殺人とは異なる、理知性なるがゆえの狂気を顕にさせることができた作品となっている。これは黒沢清ならではの手法である。そして、そのことを可能にしたのは、黒沢監督のみに許された撮り方の実直さばかりではなく、隣人を演じた香川照之の才能の異能性である。そして、冒頭のシーンも記憶にとどめておく必要がある。

白い無機質な壁面と、やはり白色の鉄格子と剥き出しの配管。そして閉ざされた磨りガラスの窓。ここは外部から遮断された部屋なのだが、無機質な白の色調そのものが一つの物質ともなっている。その物質性が帯びる固有の時間がサスペンスという磁場を発するのかもしれないと思った途端、一人の男が壁面の方向に進み、と同時に、カメラが後退すると今一人の男の背後がフレームに入る。どうやら尋問の最中のようであり、先の男は刑事である高倉(西島秀俊)、そして後の男は、殺人犯・松岡(馬場徹)なのである。この冒頭のショットを見るだけで、そこに在るというだけで物語が発生するというマテリアルサスペンスの実直性を確信できるのである。そして、頻繁に出てくるカーテンやビニールの不気味な揺らぎ。これらはエドワードヤン楊德昌『恐怖分子』(1986)を想起させもするのだが、双方に共通するのは大気の湿り、湿度ではないかと、これがアジアのマテリアルサスペンスであると、いまひとつ確信するのである。

(追記)
偽りの隣人・西野の娘を演じた藤野涼子の今後に期待したい。
彼女は成島出『ソロモンの偽証』(2014)で主演デビューしているのだが、『クリーピー 偽りの隣人』以後、作品、監督に恵まれていない。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

黒沢清『クリーピー 偽りの隣人』予告編


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