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【映画評】 フィリップ・ガレル『つかのまの愛人』身体、聖遺物

教職員専用トイレで喘ぎ声の女。
通路に蹲り嗚咽する女。
はじめに意味としての言葉ではなく、意味としての音声があった。
喘ぎ声は外部に向け、嗚咽は内部に篭る。
ガレルの冒頭はいつも意味深である。

ひとまずこう記しておく。

冒頭、大学の薄暗い階段に学生たちがたむろしている。そこにひとりの女が現れ階段をのぼる。
上階の扉を開ける廊下に出ると女は立ち止まり、人を待つ様子。廊下の奥からカバンを下げた中年の男が現れる。女はこの男を待っていたのだ。男は教職員専用トイレの扉の鍵を開け、ふたりで入る。次いで壁に押し付けられた女のショットに変わり、男は女の股間を突き上げ、女は激しく喘ぐ。

続いて夜の薄暗い通路に蹲り、嗚咽する女のショット。
女は涙を拭きその場を立ち去る。
女はアパルトマンの階段を上ると部屋の扉を叩く。中年男が扉を開ける。男は冒頭の職員専用トイレで女との情事を重ねていた男だ。女は男に優しく迎え入れられ再び嗚咽する。同棲していた男から出て行けと言われ戻ってきたと告げる。
女はテーブルに女性用ポーチを見つけ、「わたしはジャマ?」と男に尋ねる。「気にしなくていい」と答える男。

男は大学の教授ジル(エリック・カラヴァカ)、嗚咽する女はジルの娘ジャンヌ(エステール・ガレル)、喘ぐ女は大学の教え子のアリアンヌ(ルイーズ・シュビロット)。ジルを円の中心とする二人の女の物語の始まりである。

娘ジャンヌは一人の男を思い続ける内部にこもる女。同棲の相手のことを、「こんなにも好きになった男はいない」という。その男からいきなり出て行けと言われ、父親を頼って戻ってきたのだ。

女子大生アリアンヌは行きずりの男とベッドを共にするのだが、自分でコントロールできない多情型の女。ジルとの関係もアリアンヌが押しかけた形で成り立っている。

ジャンヌとアリアンヌの、「内部に篭る」愛と「外部へと向かう」愛。ガレル特有の「多層の愛」と称していいのだろうか。フランス映画によくある、わたしにはしんどすぎるほどの愛の物語である。

でも、こんなガレル作品がわたしは好きだ。
結果的には、アリアンヌの多情に振り回され傷つけられたジルは、アリアンヌとの決別を選択。
ジャンヌと彼女に出て行けと言った男は父親ジルに会い、「元の鞘に収まる」とジルに告げる。そして、夜の街頭でのジャンヌと男の抱擁で映画は終わる。

ところで、フィリップ・ガレル『つかのまの愛人(原題)L’Amant d’un jour』(2017)は、外部へと向かう喘ぐ「身体」と、内部へと篭る嗚咽する「身体」の物語だ。
ガレルにとり、「身体」はいつも現在形。たとえ過去を演じようが未来を演じようが、俳優の身体は現在形においてでしか存在しない。だから俳優に向けるショットは、いわば〝カット〟という身体の持続の切断、俳優の死でもある。

そうなのだ、死という聖域に踏み込む身体の切断のみが〝ショット〟と称することができるのだ。だから、ショットは、俳優の死としての身体=〝聖遺物〟であり、喘ぐ「身体」も、嗚咽する「身体」も、聖なるものとしてフレームに結晶化される。そのことに自覚的なのが、フィリップ・ガレルなのである。

レナート・ベルタの撮影も素晴らしい。

写真=Institut françaisより
(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)

『つかのまの愛人』予告編です


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