小説「ファミリイ」(♯38)
19.社会人3年目
放送作家業を始めてから二年経ったころから、僕はリサーチの手伝いを卒業して個人で仕事を請けるようになった。固定給が無くなった代わりに収入は完全に歩合となり、クライアントによって多寡は違うが、働いた量に応じて報酬を得られるようになり、安定しないものの、僕の収入は上昇した。三年目には東京で一人暮らししてもやりくりしていける目処が立ったので、僕は神泉町の新築低層デザイナーズマンションを借りて生活を始めた。
東京での生活を決めた背景には、Hの存在もあった。Hはその年の夏に地元の富山から夢であった東京への転職を果たし、地元に恋人を置いたまま東京へやってきていた。仲が良かった僕には、「東京で部屋を借りるように」という圧力に近いLINEメッセージも頻繁に届いていた。東京で部屋を借りれば、Hと自由に愛を謳歌できるかもしれない。とは考えるものの、彼女のように固定月給制ではないために翌月収入が無くなるリスクを抱えていたのでなかなか乗り気になれなかったが、秋にようやく重い腰を上げた。
しかし、肝心のHは転職した広告代理店がたまたま沖縄に支社を持っていたので、転職早々に異動を希望。沖縄へと移住していった。彼女がいないのなら高い家賃を払ってまで東京で暮らす必要はないのだが、家族との暮らしは限界を迎えていた。父と兄の退行は年々進んでいった。父はまた会社をリストラされてしまっていた。もう僕は働いているし父も齢六十が近いのでリストラなどどうということはないが、それよりも、たまに送られてくるメールの日本語が全く成立していないことの方が気になった。しっかり意図を伝えるように聞き直しても文章は全く同じで、意味不明なメールが返ってくる。自分の伝え方のどこが悪いのかにも気づいていない。父は認知症を発症しているのではないかと僕は疑うようになった。
このころから兄の攻撃的な独り言が出現し始めた。何を呟いているかはわからないが、兄は家にいるときはいつも「バカ」や「出て行ってください」という単語を繰り返し発する。何をするわけでもないのに夜中に二階の廊下を行ったり来たりする。一日に三回以上シャワーを浴びる。兄をよく観察し、インターネットでもその奇行がどんなものに当てはまるかを調べたところ、兄は強迫性障害と統合失調症を併発しているのではないかと思うようになった。正式な診断を受けてはいないので断言することができない。しかし、診断をもらうにはそもそも兄を受診させなければいけないので、行動姿態から推測する以外に方法はないのだ。客観的な症状から分析するに、兄の行動は十分両方の病を満たすものだった。
兄が精神病を抱えているなら、同じ血液が流れている僕も同様に精神病の因子を抱えている。だからこそ僕は、兄の年々おかしくなっていくその言動を遠い将来の僕の姿をスクリーンに映して見せられているように思えてならず、しかしその終末への予言を信じることはできなかった。だから僕は、その年の晩秋に、地元から東京へと居を移したのだ。
学生時代から実に五年ぶりの、自ら家賃を支払いながらでは初めてとなる一人暮らしが、憧れの東京・渋谷で始まった。家賃は十一万円と奮発し、家具も専門の家具屋で全て取り揃えたため実家の和室で寝起きしていたころとは部屋の見栄えは全く違った。デザイナーズ賃貸であるだけに珍しい白無垢のフローリングが床には敷かれていて、購入した家具を据え付けると当世風の部屋が完成した。
仕事は上り調子だったので気合いを入れて新生活に臨んだ。しかし、瑞々しい二十代前半だったころと較べて僕の体力は如実に落ちていて、多忙を極めていた仕事と、家具の購入、住民票の異動などの諸手続きや生活への慣れに苦しみ、果てしない孤独に悩まされるようになった。
渋谷は昼と夜、それぞれ異なったカルチャーの発信源となる街だ。昼は若者たちが中心地であるだけでなく、スクランブル交差点を起点に、昼はファッションも、聴いている音楽も多様な若者たちが躍り歩き、世界中から人々が集う、ポップで陽気な街だ。そこからはさまざまなジャンルがミックスされた複雑なファッションや流行語が毎年のように生まれてくる。
一方で夜は、淫靡な香りが漂う危険かつサイケデリックな街へと様変わりする。性風俗の店が昭和的なネオンを煌びやかに灯して軒を連ねるのは新宿や池袋でも変わらないが、渋谷という街はナイトクラブもひしめいており、何の変哲もないビルの地下へと続く小さな階段を降りるとそこには広大なダンスフロアがあり、昼間とは違ったジャンルの最先端の音楽に大勢の若者たちが身を酔わせている。ドラッグも取引されることがあり、妖しい薄闇の照明の下で出逢った男女は、酒の力を借りて街に出て、今度は二人きりだけの空間で愛し合う。たった一晩だけの関係だ。そんな事件が毎日のように渋谷という街では起きている。風俗でお金を払って交わされる老若男女の痴態と、寂しさと勢いで交わしてしまう若者のみの痴態。家から五分も歩けば、僕はたくさんの肉欲を目にする。
一夜限りだとしても、金銭が媒介する刹那だとしても肉体を結び合い相手の生身の暖かさを感じて絶頂へと達している間は、彼らは孤独を忘れる。しかし僕は、沽券を保とうとしてお金を払ってまで契りを交わそうとは思えず、かと言えば当時はナイトクラブで女性を引っ掛けるような勇気もなく、夜遊びに興じる彼らを見下そうとしていた。それだからこそ僕は、渋谷という繋がりが繋がりを呼ぶ街でひとり、鬱屈を、寒気が足並みを揃えた行進の横で同じように行進するように、年が終わるに連れて深まっていった。
東京という大都会は、自営業の若造がひとりで生活していくには大変酷な場所だった。毎月の収入が激しく変動し、来月暮らしていけるかもわからない不安に苛まれながら、すべての生活費をひとりで賄い、蟻のように次から次へと沸き出てくるために人が人とも思われないこの東京の渋谷という熱狂の街で僕は、たったひとりで年末年始を過ごした。十日以上も誰とも口を聞くこともなく、ガラス張りのバスルームに宮殿に備えてあるかのような浴槽がある、渋谷で成功の道を歩む社交的な人間によく似合う部屋で、無印良品で買ったばかりのこれまた小洒落たベッドの上で、ずっと寝て過ごした。一分間がまるで延々と続く万里の長城に行列ができ、その最後尾に立ち、進むのを今か今かと待っているかのように長かった。
考えは堂々巡りし、僕がなぜ鬱を募らせているのか、それに解が出た。僕は……家族を、自分のファミリイを欲していたのだ。なぜファミリイを欲したのか。枕の上下を入れ替えて、よりふかふかした位置に頭を沈ませると、霞が晴れて見えてきた。霞の先にあった光景は、実家の、電気ストーブで温まったダイニングの白テーブルの下座に座り、他の家族六人とともに食卓を並べていた幼いころの様子だった。家に帰りたくはない。帰りたくはないのに、僕の描く理想のファミリイ像には幼少期のダイニングで共に過ごす家族があったのだ。
家族が欲しい。この侘しい暮らしに必要なのは妻と、ひとり乃至ふたりの子どもだった。家族が、ファミリイがいないとこの大都会で僕は気丈に生き抜いていくことができないのだ。
年が明けてから一時的に仕事は忙しくなり、僕は侘しさを忘れることができた。しかし、長くは続かなかった。
その年の三月で僕が担当していたテレビ番組は全て内容のリニューアルもしくは終了となり、僕はほとんどの仕事を失ってしまった。僕は、僅か七ヶ月で地元にかつての理想の家族のもとへと帰らざるを得なくなった。
僕にはどんな肌も寄り添ってくれない。柔らかく温かい愛を感じさせてくれる肌と無垢で白い父性を感じさせてくれる肌、そのどちらも。この問題を前線に立って解決しなくてはいけないのに、僕は前線から退却しまた灰色の沼へと浸かることになる。
20.現在(4)
この年は、例年、日本中で行われる各カウントダウンイベントは感染症拡大を抑えるために軒並み中止となり、人々は静かな年明けを迎えた。僕は元来、カウクラブや派手なイベントには縁などなく、初詣に行くような習慣もないので、いつもと変わらない年越しだった。多くの人々が不自由さと疎外感を感じる中、僕はこのパンデミックにおいてもほとんど日々の生活は全く変わらなかった。その僕だけにしかわからない事実がまた僕を余計に社会に適応していない人間だと思わせる。
「パンデミックによって人々の生活は一変した」
とネットニュースやテレビではしきりに報道されていたが、ウイルスは僕に対して全く無力だった。大晦日に東京は、一日の感染者数としては最多となり、初めて千人越えした、千三百三十七人を記録した。それから連日のように東京は感染者数が増え続け、一月上旬の先週、二千四百人を記録した。
しかし僕は、人通りの多い明治通り沿いに住み、そこら中に感染者が蠢いているというのに一向に体調を崩しておらず、感染はしてない。全くの健康体である。あるいは、このウイルスは感染しても無症状の場合があるので、どこかですでに感染して、すでに治癒しているのかもしれない。一日に一回、マンションから外に出て、上空の線路上を走行する電車が通過する際の身をつんざくような轟音と、明治通りをを行き来する何十台もの車が擦り鳴らす、身をきしませるような轟音。轟音は通り沿いを、スーパーまでの二百メートルを歩く僕を追いかけてくるが、これがこの町の日常風景だ。
ただ常と違うのは、沿道を行く人々が皆マスクをしていること。マスクをしていないころのこの町の様子を僕は知らないが、不織布を誰もが付けて、それを平然と受け入れているまるで共産主義国家のような光景は、さぞかし異様なはずだが、誰も異様だとは思わなかった。
一月七日に一都三県で再び緊急事態宣言が発令された。今回の宣言の休業対象は飲食店のみで、一都三県の飲食店の営業時間は午後八時まで。従わない店は店名公開の上、罰金として五十万円が課されるという法律の制定も国会で審議に入った。
企業も学校も活動をして良いことになり、以前の緊急事態宣言時とは様子は異なっているが、厚労相や首相など日本の大臣たちは休日や夜間外出の自粛を国民に求める声明を発表した。またしても東京を曇天が覆い、都民たちは閉鎖空間に長く押し止まることを強いられた。ネットニュースを見れば、一日に一回は必ず有名人の誰かが感染したという記事を見かけ、学校などでクラスターが発生し、数十名規模の感染が起きたという報道もされていた。メディアは、僕たちに身近な感染源や感染者を見つけてきては、僕たち市民に恐怖心を植え付けてくる。
〝医療崩壊〟という言葉も連日のように報道されるようになった。重症者の増加割合に対して、東京や大阪などの病院のベッド数が足りていないのだという。このまま感染者が増え続ければ、感染者への医療が提供されず、多くの人々が死んでしまう、とメディアは囃し立て、外出しないように求めてくる。斯様な危機感の煽動に多くの市民が平静を失い、政府や出歩く人々などに憤怒の矢を向ける。
その実、死者はほとんど基礎疾患持ちの高齢者であり、僕たちのような現役世代はほぼ重篤に至らない病気なのだが、日本は高齢者大国であるために、政治家は票を失うことを恐れて彼らへの行動自粛を要請できず、現役世代に自粛を強いるという状況になり、対策は全く意味のないことになってしまっている。
混沌とした状況をあえて作り出す国とメディアに僕はこの国の行き詰まりを感じとった。どこか他の国で暮らそうか。しかし、どの国もウイルスの侵入を防ぐために出入国できない状況にあり、逃げ場はない。この閉ざされた先行きのない都市で僕は、森林の中にある痩せた老木のように、そこから動き出すこともできず、誰にも気づかれずに朽ちてゆくしかないのだ。
一月半ば、その思いは極限に至り、ついに僕は諦めの崖の上に立ち、Hと結ばれ、家族を持ちたいと思っていた夢を諦めた。
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