レンズを通して見るとちょっとだけ輝いて見える、大嫌いで大好きなあの町の日常。
ヨルダンで5か月暮らした。
初めて降り立った時、町は驚きにあふれていた。
空港で私を乗せたタクシーは、砂漠の真ん中の砂嵐が吹き荒れる道を、クラクションを鳴らしながら、交通ルールなど知らないとばかりに周りの車の間を縫って進んだ。
私のお家は町全体を見渡せる丘の上にあるアパートで、エントランスの前ではかわいい猫が昼寝をしていた。
タクシーを降りると親子連れが、私には理解できない言葉でニコニコしながら何か話しかけてきた。
目新しいものばかりに囲まれてドキドキしながらも、なんとなくこの町と仲良くなれそうな期待感に満ちていた。
1か月たって、この町が嫌いになった。
風が吹くたびに髪にまとわりつく細かい砂。
渋滞で進まないタクシーと耳をつんざくクラクションの音。
家に帰るのも一苦労な急な坂道。
がりがりに痩せた増えすぎた野良猫。
小さな子供を連れて物乞いをする大人たち。
あの日キラキラして見えていたものは、実際暮らしてみると嫌気がさすようなものばかりだった。
2か月たって、嫌いな町に慣れようと試みた。
すぐに砂だらけになる髪をきれいにするため、帰宅後はシャワールームに直行した。
渋滞を考慮して早く家を出るようになり、タクシーの中ではクラクションから耳を守るためのイヤホンが必須だった。
近所のスーパーへ行くために、比較的傾斜がゆるいルートを探した。買い物袋をもって坂を上ったので、ちょっと体力がついた。
野良猫にも物乞いにも絡まれないように、できるだけ足早に通り過ぎるようになった。
嫌いだけれど、逃げ出そうと思うほどではなかった。
3か月たって、嫌いな町が日常になった。
帰ってすぐシャワーを浴びるのは慣れてしまえばむしろ効率的だし、早めに家を出て職場に向かうタクシーの中は、音楽を聴いたりYouTubeを見たりする趣味の時間になった。
荷物をもって坂を登るのはやめて、職場やカフェの近くで買い物をして、そのままタクシーで帰るようになった。
野良猫も物乞いも、私が何もくれないとわかったようで、話しかけてこなくなった。
慣れきってしまえばなんともない、良くも悪くも平凡な日々だった。
4か月たって、この日常がもうすぐ終わることがさみしくなった。
この日常を記録に残そうと思い、カメラを持ち歩くようになった。
砂嵐の吹く砂漠は、レンズを通すと別の惑星にように見えた。
タクシーの車窓に流れる景色は、今まで無視していたのがもったいないくらい満ち溢れていて、シャッターを切る手が止まらなかった。
丘の上に立つアパートは、町全体の写真を撮るのに最適だった。
いつも家の前で寝ている猫は、カメラを向けても我関せずだった。
物乞いの親子だけは写真に収められなかった。その代わりに、町を歩いていると寄ってくる子どもたちの写真を撮った。
カメラをもってレンズを通してみたあの町は、いつもより少しだけ輝いて見えた。
5か月たって、私はなんだかんだこの町が嫌いではないと気付いた。
いいところも悪いところも見たけれど、そのうえでやっぱりこの町を嫌いになれない。
休日に砂漠の真ん中のテントに泊まった。シャワーもなく、髪どころか体中砂だらけだったけれど、それすらも気にならないくらいきれいな満天の星空の下で眠った。
クラクションは最後までうるさかったけれど、日本に帰ってきたら町が静かすぎて少し寂しい。
アパートを退居した日、大家さんに挨拶をして初めて家の前の猫を撫でた。大家さんが世話をしているからか、ほかの野良猫よりふっくらしているし毛並みもきれいだった。
お土産を買いすぎてスーツケースに入りきらなかった服は、いつも道端に座っていた親子にあげた。物乞いの人たちへの支援はいろいろな意見があるが、捨ててしまうよりは何倍もましだと思った。着るなり売るなり好きにしてくれという気持ちだ。
そうして私は5か月暮らしたこの町を後にした。
あの町を出て1年がたった今、たまにカメラロールをさかのぼりながらあの日々を思い出す。
写真の中のあの町は、私の記憶の中のあの町よりなぜかキラキラしている。
カメラを通して切り取った余所行きのあの町はデータとしてずっと残るけれど、思い出の中の普段着のあの町も、ちゃんと覚えていたいと思う。
5か月暮らしたあの町には、新鮮さと日常が共存していた。
これはカメラのレンズと、文章というレンズを通して見ると、ちょっとだけ輝いて見える、大嫌いで大好きなあの町の日常。
カメラ:Panasonic LUMIX GF10
撮影地:ヨルダン・アンマン(Amman, Jordan)
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