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『夜と霧』を読んで、変わったこと

結婚について考えていたら、「幸せ」について考えざるをえなくなった。

結婚をすればかならず幸せになれるのか、と聞かれれば、否だろうと思う。結婚をしていても当然、不満はあるだろうし、むしろ結婚をするからこそ付き合っていた頃には見えていなかった相手のイヤなところが見えてきたりもするだろうと思うからだ。

じゃあ幸せになりたいから結婚をするのか、と聞かれたら、それはそうかもしれないし、そうとも言えないともいえる。ようは時と場合に、もっといえば結婚相手や置かれた環境にもよるはずだろう。

じゃあ幸せって、いったいなんなのだろうか。

どうせ90年近く生きるのならば、できるかぎりは幸せでいたい。どうせ死ぬときは1人なのならば、「あぁ、幸せな人生だった」そう思いながら死にたい。

どのような人でも、不幸になりたいと思いながら生きている人はいない。だからこそ、自らより幸せそうな人を見ればうらやましく感じるし、自らが運悪く不幸な目に遭ってるときには、周りのすべてが憎たらしく感じる。

アウシュビッツ強制収容所から生き延びた、ユダヤ人精神科医の方が書かれた『夜と霧』を読んでみた。

このnoteで800文字などでは到底、書ききれないほど思うところはあったのだけれど、一言で表すのなら、「幸せはつくれる」ということだった。

つくれるとは、自らの気持ち次第でどうにでもなる、ということ。

お金がないから趣味をもてない、歳を取ってきたから楽しいことは起こらない、仕事が忙しいから休みの日は寝て終わる、そういう考えでいるかぎりは幸せなど絶対に訪れない。

結婚なんて両家のあいだになんの問題がなかったとしても、日々思い通りにいかないことのほうが多いに決まっているのだ。それでも、「どうにか幸せに暮らそう」そう考えるだけで前向きに生きられると思う。

反対に、ずっとあれもこれもと不安が拭えないなら、それは結婚などしなくてもそういう人生なのかな、と。

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