なぜ、文章を書くことは「対話」なのか
読んでいて、「気持ちのいい文章」というのはたしかに存在する。
気持ちのいいとはなんとも抽象的だが、読み手のこころにグサっとささると置き換えてくれてもいい。いや、まだ説明としてはやさしくない。
以前に、noteだか本だか、どこかしらで目にした言葉をわりと鮮明におぼえている。その方が言うには、「いい書き手には条件がある」と。その条件とは、ここぞ!という場面で読んでいる人がもとめている言葉を書けるかどうかだ、と言っていた。
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いまはこの本に熱中している。僕が学生の頃から好んで読む、『逆説の日本史シリーズ』の戦国編である。
このなかに、以下のような文があった。
ここからつづく文は何なのか、2秒でいいのでぜひ考えてみてほしい。
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本書ではこのように書かれている。
僕はみなさんとおなじように、この本を読んでいるときにも答えを予想し、ひとつの考えが思いうかんだ。それは、天皇だった。だから、つぎの行に目を移したとき、思わず「よしキタ!」と声がでた。
うれしかった。なによりも気持ちがよかった。
冒頭で書いた「気持ちのいい文章」というのは、僕にとってはこういうことだ。つまり、書き手と読み手の息が合うこと。文章を書くことと読むことは「対話」であるから、両者のなかで連帯感がうまれる瞬間でもある。
そして同時に、この書き手はすごいなとおもう。生意気だが、「わかってるな、この人は」となる。
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その一方で。
読み手が想像もできないような文章を書く人のほうが、もっとすごいのではないかとも思う。
そりゃあそうだろう。文章を読むというのは、あたらしい知識を得る体験である。必ずしもそういう目的だけではもちろんないが、「あ、そういう考えもあるのね」と。「この人のべつの考えや話も知りたいな」と思ったりもする。そうなると、往々にして、尊敬へとつながる。
さて、この両者では、どちらがより優れているのだろうか。
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もちろん、書くまでもなく、どちらもすごい。
ただ、バランスがとても大切だと思う。読み手が読みながら目を丸くするようなあたらしくて説得力がある文章と、読み手が「そうそう、それそれ」と頷きながら読める文章。
前者の割合が多すぎると、最終的に「この筆者はなにが言いたかったんだっけ?」となりそうだ。反対に、後者の割合が多すぎると、「いや、べつにあたらしく得るものはなかったかな」となりそうである。
とくに、このnoteのような1000文字前後の文章のばあい、やはり、書ける主張はひとつだろう。この記事における僕の主張は、「文章は書き手と読み手の対話である」というところにある。
はたして、そこ以外の文章は蛇足に見られているのだろうか。うんうんと、頷きながら読んでいてくれたら嬉しいのだけれど。
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