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寄付と曖昧な信頼

愛犬との思い出に影が落ちたような気がした。

サウナに行く必要がないくらい蒸し暑い日に、図書館に本を返しに行った。図書館の冷たい空気に触れた瞬間、気になっていた本が頭の引き出しから見つかった。運良く借りることができて、自分で自分を褒めてあげた。
ホクホクとした気持ちで図書館を後にし、駅前の広場を通った時、少年たちが募金箱を持ちながら大声で叫んでいる姿が目に入った。途端に今日はいい日と思った気持ちは消え、カロリーゼロのコーラを飲んだ後の、人工甘味料のベタつきのような後味の悪さにすり替わった。

「寄付」に不信感を感じたきっかけはお風呂を沸かし食器を洗い終えて、一息ついていた時だった。
左隣には元保護犬の飼い犬、パルがぐっすり寝ていた。ちらっと舌を出し、ぷうぷう言いながら寝る姿は、世界中の平和のイメージを合わせたような姿だった。彼女の寝顔を見ていると私が守らなくてはいけないという気持ちになる。母性というのはこういう感情を言うのかもしれない。

寝ぼけているパル

気の抜けるような寝息をBGMにSNSを見ていると、パルを引き取った保護団体の投稿がおすすめとして流れてきて、添えられていた文章の不穏さに目が離せなかった。

「苦情相談窓口設置のお知らせ」

任意である寄付金を絶対条件として案内したり、任意である毎月のフード購入を必須とするような案内などがあったらしい。そして私たちがパルを引き取る際にもされた案内だった。
引き取る際に起こったことを窓口に連絡し、調査結果のメールをもらっていたが、私の中で折り合いがつかず返信ができていない状況だった。

駅前で募金箱を持ち、大声で叫んでいる少年たちに聞いてみたかった。

「私がいれたお金は何に使われるの?」

大学でNPOや寄付について学んでいた時、日本社会の課題として挙げられていたのが「不透明性」だ。
寄付されたお金が何に使われているかという報告がされていない団体が多いという。私たちはお金に敏感で、経費や税金など厳しく目を光らせている。だけど寄付になった途端に鈍感になる。気の抜けた曖昧な信頼に任せてしまうのはなぜだろう。
寄付というのは生まれや親などの避けられない不平等に立ち向かう手段のはず。大切な手段を雑に扱ってしまうことが引っ掛かっていた。

まだ上手に言葉にすることはできないけれど、気持ちが抜けていく前に立ち向かわなくてはいけない。メールボックスを開こうと思う。

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