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ローマ帝国-②継承されるリーダー

トップの継承問題で悩みを抱える企業は多い。特に創業から急成長した企業は、軒並み後継者への引継ぎがうまくいっていない。孫正義、柳井正、永守重信といったカリスマ型リーダーの後継は、なかなか見つかりそうもない。

一方、うまくいった例もある。マイクロソフトは、ビル・ゲイツからスティーブ・バルマーを経て、サティア・ナデラがリーダーを継承した。クラウドシフトに成功し、一時アップルを抜き、時価総額ナンバー1に返り咲いた。

アップルのティム・クックも継承の成功と言えるだろう。確かにスティーブ・ジョブスのようなカリスマ性や独創性はないかもしれないが、彼がCEOを継承してから、アップルの純利益は4倍近く増えている。

うまくリーダーを継承するための秘訣はあるのだろうか。次のリーダーを生み出し続けるシステムとはどのようなものだろうか。歴史から得られる示唆はあるのだろうか。

このような問いから、ローマ帝国第二回の考察を始めてみたい。今回は、地中海世界に長期安定をもたらしたパックスロマーナの世紀を中心に、ローマを率いたリーダーは何者で、どのように継承されていったのかを見ていきたいと思う。


リーダーが替わり続けた国

共和政時代、ローマの最高職は執政官と呼ばれ、国政のトップであると同時に、軍事のトップでもあった。任期は1年で、同時に2名選出された。このシステムが示す通り、ローマとはリーダーが次々に替わっても強くあり続けた国だ。

マケドニアはアレクサンドロス大王によって空前の帝国を築くが、大王没後すぐに分裂した。カルタゴの天才的武将ハンニバルによって、ローマは滅亡寸前まで追い詰められたが、その都度リーダーが替わりながら持ちこたえ、最終的にカルタゴに勝利した。

もちろんローマにも、カエサルのような天才的リーダーが現れた。だが、その後も替わりとなるリーダーが現れ続けたところに、永続的繫栄の秘訣がある。

パックスロマーナの世紀

帝政ローマのリーダーである皇帝とは何者かを見る前に、パックスロマーナと呼ばれた紀元1世紀から2世紀の流れをざっと見てみよう。

初代皇帝アウグストゥスから、暴君として有名な五代目ネロ帝まで、紀元前27年から紀元68年まで約100年間続いた期間をユリウス=クラウディウス朝と呼ぶ。アウグストゥスが属するユリウス氏族と、外戚であったクラウディウス氏族が継承したので、こう呼ばれている。

ネロ帝の死後、内乱の危機が訪れる。辺境に駐屯していた軍団が、自分たちで皇帝を担ぎ上げ争い始めたのだ。その中で東方軍総司令官だったウェスパシアヌスが乱を制して皇帝となり、一時的に安定期を迎える。しかし、その孫であるドミティアヌス帝は、宮廷内クーデターにより殺害されてしまう。

この混乱を治めるために、すでに老齢であった元老院議員ネルウァが皇帝に指名される。ここから、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスと続くのが、世に名高い五賢帝の時代である。紀元96年から180年に渡りローマ帝国は最盛期を迎え、地中海世界に安定と平和をもたらした。トラヤヌスの時代にローマ帝国は最大版図となった。

ローマ皇帝という職業

前記事で触れた通り、アウグストゥスによって共和政という隠れ蓑を被って始まったのがローマ帝政だ。ローマ皇帝は、元老院と市民によって選ばれた代表者であるというのが前提となる。ゆえに、アジア的な皇帝とは区別され、元首政とも言われる。

ローマ皇帝の立場は非常に不安定なものだった。全期間で見ると、実に62%にあたる43人の皇帝が暴力によって死亡しているのだ。

初代から五代目皇帝までの死因を見てみよう。

初代 アウグストゥス 自然死
二代目 ティベリウス 自然死
三代目 カリグラ 将校による暗殺
四代目 クラウディウス 毒殺?(嫁に毒キノコ盛られた)
五代目 ネロ 反乱軍に攻められて自死

成立初期からこんな状態で、よく持ち堪えたと感心する。オリエントや中華王朝と比べ、権威の神格化が弱いせいなのか、常に「皇帝として求められる役割を果たせるかどうか」という目にさらされ、失格の烙印を押された者は容赦なく排除された。まさに世界一危険な職業だ。

誰が皇帝に選ばれるか

ローマ皇帝が嫡子に世襲された例は、思った以上に少ない。アウグストゥスは血縁者への継承に最後までこだわったが、結果的には、妻リウィアの連れ子であるティベリウスに継承された。その後も一応同じ家系からの継承が維持されたが、いずれも傍系や外戚によるもので、どの君主も直系の嫡男を後継者にできなかった。

ちなみに五賢帝は、全員血のつながりがない赤の他人だ。実子がいなかったせいもあり、後継者を養子に指名することで継承していった。

では、誰が養子に選ばれたのか。それは元老院議員から選ばれていた。この元老院階級の特徴を理解することが、ローマの真の力を知ることにつながる。

元老院議員とは何者なのか

ローマの元老院議員とは、国政と軍事に関する経験と見識を備えたエリート集団である。由緒正しい家系の出で、一定以上の財産を持っていることが要求された。五賢帝時代、元老院の定員は600名。この時代のローマの総人口が5000万~8000万人と推測されているから、ごく少数の上層階級である。

彼らはノブレス・オブリージュの体現者であることが常に求められ、戦場に赴くことを厭わず、私財を投じ公共事業を行い、そこに名を刻むことを最高の名誉とみなしていた。

ローマがローマ足りえたのは、この上層階級が固定化されず、常に外部に開かれ、絶えず新陳代謝が進み、流動性を保っていたことだ。特に帝政に入ってからは、階層間の流動性が顕著に見られた。ネロ帝後の危機を治めたウェスパシアヌス帝は、イタリアの地方都市出身で新興の家柄だった。さらに、そうした新興勢力を新たな元老院メンバーとして大勢加えていった。五賢帝時代には、イタリアの伝統的家系は半分程度に減少し、新興家系や属州都市の有力家系が、新たな元老院層を形成していった。

試しに五賢帝の出身地を見てみよう。

ネルウァ ローマ出身
トラヤヌス スペイン出身
ハドリアヌス スペイン出身
アントニヌス・ピウス 南フランス出身
マルクス・アウレリウス スペイン出身

帝政初期の皇帝はローマ出身者で共通していたが、五賢帝の面々は、ネルウァ以外は属州地域の出身者になっている。すでにこの時代は、属州から皇帝が選ばれることが常態化しているのだ。

彼らの政権基盤になったのは、同じ属州派閥に属する元老院議員たちだった。このような元老院議員の中から、辺境を押さえる軍団司令官や属州総督が選ばれ、そこから次の皇帝が選ばれたのである。

人財輩出機関としての元老院

共和政期から帝政最盛期において、常に元老院階級が次のリーダーを生み出し続ける役割を担っていた。さらにこの階級が固定化せず、絶えず流動性を保っていたことが、長きに渡り優秀なリーダーを輩出し続ける鍵となった。

そして、彼らは行政についても軍事についても専門化せず、いい意味でアマチュア的存在であった。例として、トラヤヌスのキャリアを見てみよう。会計検査官、法務官と進んだ後、ヒスパニア属州の軍団長を務める。38歳で国政の最高職である執政官に上り詰め、任期終了後すぐに最激戦区であるゲルマニアの軍司令官となる。そして44歳の時に次期皇帝に指名される。こうした行政と軍事を交互に担当するキャリアは、ローマにおけるエリートの育成過程を示している。

こうした人財育成のシステムが機能しなくなっていくのが、「3世紀の危機」と呼ばれる時代である。平和に慣れた既得権益層は、環境の厳しい辺境の地に配属されることを嫌がり、属州の有力者に任せるようになる。元老院階級の質の低下が帝国の凋落と重なっていく。

3世紀に入ると、属州出身の軍事司令官が、軍団に擁立され皇帝を名乗り合う「軍人皇帝時代」が訪れる。50年間に26人の皇帝が立ち、そのほどんどが戦死か暗殺されるという騒乱の時代となる。そして、この時代のガリエヌス帝によって、元老院を軍務から締め出す法が制定され、軍務と政務のバランスが取れた人財を輩出する機能を永遠に失ってしまった。

おそらく、すでに誰もそれを残念なことだと思わなくなっていたに違いない。元老院は、軍を背景に擁立される皇帝をただ承認するだけの機関になってしまった。

◇ ◇ ◇

本記事では、帝政ローマのリーダーである皇帝とは何者か。そしてリーダーの育成と継承を担った元老院階層について考えてみた。

国政を担うリーダー、企業における経営リーダーの育成と継承を考える上で、多くの示唆があったのではないだろうか。次のリーダーを輩出するシステムが働かなくなった時に、組織の凋落が始まる。

第三回は、ローマ帝政末期にフォーカスを当て、長く続いた帝国が滅ぶとはどういうことかを見ることで、逆に長きに渡って帝国を繋ぎとめていたものは何だったのかを考えてみたい。

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