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秦漢帝国-①性善説と性悪説から始まる組織統治の源流

人間をどう捉えるか

組織のマネジメントを考えることは、人間をどう捉えるかと同義だ。言い換えれば、人間のどこに光を当てるか。それによって、組織を支える思想が決まる。

組織マネジメントの文脈でよく出てくるのが、性善説と性悪説というキーワード。人間を性悪説で捉え、サボらないように、悪いことしないように、管理・監督しようとするか。人間を性善説で捉え、モチベーションを上げて、自由に任せて、チャレンジさせようとするか。どちらを指向するかによって、権限の持たせ方、目標管理の仕組み、人財の評価基準などが変わってくる。前者のような行き過ぎた規律型から、後者の自律型に移行しようというのが昨今の風潮だ。

どちらか一方が正しいのではなく、状況や役割に応じて絶妙にバランスを取っていくのがマネジメントの力だろう。一点でバランスを取って止めようとするのではなく、玉乗りのように絶えず左右に揺らしながらバランスを調整し続ける。人間とはとても複雑な生き物だ。

儒家の思想

このような、人間の本性を捉えようとする思想の起源はとても古い。古代中国の春秋戦国時代、戦乱の世にあって、いかに民を安んじるか、いかに国を富ますか。そのために様々な角度から人間を探究し続けた、諸子百家と呼ばれる思想家たちがいた。

中でも、後の中国における国家統治の根幹をなすのが、儒家の思想である。その開祖である孔子が生まれたのは、およそ紀元前550年。だいたい釈迦と同じで、ソクラテスの100年前くらい。

孔子の思想をものすごく簡単にまとめると、を大切にしなさい、ということに集約される。仁とは思いやりの心。仁の根本は、家族に対するから生まれる。そして礼とは、仁を態度として外に表す礼儀作法のこと。つまり、「人に思いやりを持って、礼儀正しく生きなさい。まずは親孝行から始めなさい」ということだ。

すごく当たり前のことを言っているようだが、これを私たちが当たり前だと思えるのが、孔子の影響力の大きさなのだろう。とはいえ、なぜこれが国家の統治思想になるのか。孔子は、「堯・舜・禹」という伝説の三王や、初期周王朝に国家統治の理想を置いた。それは「徳のある君主が仁政を行うことで、おのずと民も仁と礼を守るようになり、国は良くおさまる」という考えだ。現代の企業の文脈で考えるなら、「すべては経営トップの人間力で決まる」という感じか。

しかし、互いが激しく争い合う戦乱の時代で、こんな理想主義が受け入れられるはずもなく、孔子の言葉に耳を貸す王はいなかった。

仁政を追求した孟子

人が仁の心を持つための、内なる孝と外なる礼。孔子の教えはさまざまな解釈を含みながら、門下の弟子たちに引き継がれていく。

その中から出てきたのが、性善説で有名な孟子だ。人間は、生まれながらにして、いたわりの心、悪を憎む心、謙遜の心、善悪を判断する心を持っている。では、なぜこの世の中は乱れているのか。それは人を治める側の問題だ。人徳のある王が民を思いやる仁政を行えば、おのずと民は王に従い、不正をせず勤勉に励む。それが王道政治だ、と説いた。

そして、もし徳のない王が立ってしまった場合、天命によって、別の徳のある人物に替わられるとした。この思想によって、この後の中国では、ダメな君主が現れては打倒され、新たな英雄によって王朝交代を繰り返す、という歴史を歩むことになった。

これは、賢い哲人王と少数の賢人によってよい政治が実践されるとした、プラトンの「哲人政治」によく似ている。ただし、プラトンは民を信じてはいなかった。衆愚政治に陥ったアテネの行き詰まりを悲観していたからだ。その点では、次に紹介する荀子の考えに近いかもしれない。

礼を継承した荀子

一方、礼の考えを受け継ぎ、性悪説を唱えたのが荀子である。人の本性は悪であり、誰しも利益を好み、人を憎む心がある。放っておけば争いが生じ、秩序が乱れる。だから、教育によって礼を身につけることで初めて、人間は善になりうる、と説いた。

礼を守るということは、定められた「」をわきまえるということだ。人間の欲望には限りがない。だから身分や区分を定め、農民は農民らしく、官吏は官吏らしく、君主は君主らしく、与えられた役割に従って生きなさい。そうやって世の中の秩序が保たれる。

荀子は、冷徹な眼差しで人間を見つめ、直面する現実への実践的対処を優先する。それは礼によって民を律すること。その礼に強制力を持たせたのが「」である。荀子の門下からは、法家と呼ばれる学派が育ち、後に秦の統治システムを完成させる韓非子李斯を輩出した。

このように、礼と法はつながっているのだが、大きな違いがある。礼は、出自によって決まった「分」を守りなさいとするのに対し、法は、システムによって割り当てられた機能的役割を守りなさいとする。つまり、法治国家では、ルールさえ守れば下剋上は可能。漫画『キングダム』の信のように、庶民が将軍になることもありえる。法の前では万民は平等。人間の欲望を肯定し、むしろ刺激していると言える。

組織をどう捉えるか

性善説と性悪説とは、人間の本性がどちらなのかを論じているのではない。人間に両面があることなど、よくわかっているのだ。どちらに光を当てて捉えるかで、人間の集団をどのように治めるかを論じているのだ。

人間はひとりひとり意志を持った存在だ。リーダーが人の心に働きかけ、意志をより善い方向に導くのが孟子的思想。守るべき決まりを学ぶことで、型からより善い生き方を導くのが荀子的思想。荀子側からすれば、孟子の考え方は理想論過ぎるし、具体的にどうするのか、となる。孟子側からすると、それで人は心から善くなるのか、ただ型を守っているだけではないのか、となる。ただし、考え方は違えど両者は儒家であり、仁、つまり思いやりに満ちた世の中をつくろうという目的は変わらない。

法家になると、強い組織をつくることが第一の目的となる。その時、人間は組織を機能させる資源となる。組織の目的を達成するために、人間をどう機能させるかを考え、そのためのシステムを組み立てる。「えっ、ちょっとまって、それって誰の幸せのためなの?」となりそうだが、言い分としては、「組織が守られてこそ、人が安心して幸せに暮らせるのである」となるのだろう。

これは会社の考え方に近い。会社は本来、事業を行う機能体としての組織だから、会社が成長するのが第一目的とされる。ただ、その構成員である人々は、会社だけに属しているわけではない。生活のすべてを組織の目的に捧げる必要はないし、目的に意義を感じなければ抜けることもできる。とはいえ、みんなが自立して生きられるほど強くない現実もあり、そう簡単に割り切れないのだが。

こうしてみると、2,500年前からずっと議論されてきた課題意識は、今と大きく変わらないと感じる。ということは、人間はさほど進歩していないのかもしれない。

中国の春秋戦国時代に話を戻すと、どの統治思想が最も優れているのか、いったん答えが出ることになる。次回の記事で、秦による中華統一とその統治思想についてまとめてみたい。


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