転がる半熟

そこらへんにいる人のあたまのなか

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最近の記事

さくらの季節

桜は満開もすごく高鳴って並木を見に行ったりするが、道や川が桜の絨毯になっている様が好きだ。 見上げるとあんなに満開だった春色の木には葉の緑が差してきていて、それが寂しくもあるが、もう一度下を見ると美しくてなにより落ち着く。 #桜 #4月 #新年度

    • 浸かってきたカルチャーの舞台は、四畳半だった

      影響を受けたカルチャーが生まれたのは、四畳半だった。しかも風呂なし・共用トイレ。それが、音楽や小説の中に登場した、想像を膨らませた舞台だった。 しかし最近は六畳以上・風呂あり・トイレありが主流らしい。音楽や小説で四畳半という単語をひさしく聞かなくなった気がする。 ふつうは生活水準が上がったことをよろこぶところだが、あの狭い空間から生まれた、鬱々とした創作物にわたしは美しさを感じていた。 #四畳半

      • 同じ場所からみるちがう風景

        2年ぶりに赤城神社に立ち寄った。 1ヶ月ちがうが、前に来たときも春のあたたかな日だった。 あのときは心機一転しようとする最後の休日だったことを、今日同じ場所に来ることでふと思い出した。 おみくじを引いて、人が少ないお気に入りの場所で眺める。

        • 晴れた日は。

          晴れた日でもカーテンを開けない。 開けたら気持ちが清々しくなるし、健康的なのだが、カーテンから漏れ出る光の強さでその日の晴れ具合を予想するのが結構たのしいのだ。 そうして玄関のドアを開けた瞬間、予想と現実を比較しながらわたしは踏みだす。 #晴れた日 #カーテン #天気予報

        さくらの季節

          くせになってしまったこと

          人と話すとき、心の中で諦めている。 たとえそれが恋人であってもだ。 「人は死ぬときはひとり」 そう考えてしまっては孤独を再確認し、さらに自分のなかで強めていく。 だから基本的に人を心の奥底では信用できていない。 大切な友人や恋人であっても、好きな気持ちとそこはなんだか別の感情としてある。 そうなると、核になる相談をできる人がなかなかいない。それで大丈夫、むしろそんな相談ができる人は限られている方がよいと思っていて1人しかいなかった。 だが、最近そのスタイルに疑問を持つよ

          くせになってしまったこと

          愛って相槌かもしれないね

          このタイトルは、「相槌」って打とうとしたら、愛が変換の最初にきてしまって打たさっただけなのだけれど、その瞬間、この相槌についてのテーマと愛がリンクしているな、それに韻も踏んでいるやんというよくわからないハイに入ってしまい、こんなタイトルになった。ここまで読んで、「おもしれぇ人間」と頭の中の道明寺司に言わせられる人はこの先も読んでみていただきたい。 自分のなかで頑なに閉じこめてしまって言えないと思っていたことでも、ポツリポツリと話していたら、なんだか形になっていく。自分でも、

          愛って相槌かもしれないね

          日付に対して感じること

          10年前の今日、わたしは国公立大学の後期試験を受けるため、他県にいた。 地震の少ない地域に住んでいたから、とても驚いたことと、テレビから流れる情報がとても現実には思えなくて呆然としていたが、揺れたが震度が大きい地域から少し離れていたこともあり、現実味が伴わず、どこか冷静である自分もいた感覚が残っている。 そうして10年が経った今日、日付はふつうに跨いだし、深夜ラジオもいつも通り聴いていた。日常をいつも通り続けていた。 そうして4:30を迎えようとしていて、今日はあさぼらけは

          日付に対して感じること

          帰り道にすること

          その日の面白かった出来事を反芻するようにしている。 人がいたら驚かせてしまうが、自分1人しか歩いてなかったらたまに笑ってしまうレベルで楽しくなる。 帰宅してからやればいいとも思うが、家に着いたら洗濯やお風呂で慌ただしい。行動しているうちに、感情や記憶の鮮度が薄れてしまう気がする。 それに、歩いてるときのリズムや手持ち無沙汰が、思い出すことにちょうどよく作用しているのだと思う。 そうして帰宅し、寝床につく前に、帰り道に思い出したことを日記に書き込んで眠る。 こうすると、イ

          帰り道にすること

          持っていこ、持って帰ろ、エンゼルフレ〜ンチ

          ドーナッツって素晴らしい。 揚げたパンのなかでも偉い。 甘さがたっぷりあるから偉い。 そんなドーナッツの代表格ミスタードーナッツのなかで、いちばん好きなのは「エンゼルフレンチ」。 正確には、20年前にあったこれのチョコバージョンがNo.1だったが今あるラインナップで語る。 まず最外層のチョコがパリッと砕けたあと、フレンチクルーラーのふわふわな食感が広がり、そして少し硬めな生クリームに到達する。 この三重奏が堪らない。 買いていたら食べたくなってきた。 でも今日はポンデリ

          持っていこ、持って帰ろ、エンゼルフレ〜ンチ

          親とまったく折り合いがつかなくても

          親は選べないと誰かが言った。 だが、親もこどもを選べないこともまた然りだ。 ここを忘れて親だけを批判していたときがあった。 もちろん気をつけなければ今でもすぐそうなってしまう。 ちがう言語を扱う人間なんだ、と思うようになってから、もう理解し合うことを諦めた、意思疎通を放棄した。 そもそも、親であってもなくても、「絶対的に自分が正しい」と信じて止まない人間(親)に対して、彼らより下だと思われている人間(こども)の声が届くことは期待できない。 それに、自分の3倍近く生きてい

          親とまったく折り合いがつかなくても

          "共感"ではなく"共有"

          年末からずっと考えていることがある。 もう3月だから、100日近く考えたことになる。 自分自身で何か体験すると、うれしかったり悲しかったり、さまざまな感情が生じる。心が動く。 それを大切な人に伝えたいとき、すべて理解はされなくて構わない。価値観はお互いに育った環境がちがうのだから当然だし、むしろそれぞれの考えを尊重し合いたい。 ただ、その価値観のちがいから生まれる受け取り方の差を、言葉を尽くして、埋める努力は怠りたくないのだ。 体験に付いてくる感情の動きに共感してほしい

          "共感"ではなく"共有"

          自分が思っている"こんなこと"は、相手からしたら"そんなこと"だったりする

          「こんなこと言ったら幻滅されてしまう、嫌われてしまう、時間の無駄だと思われてしまうのではないか」、そうやって先回りばかりして、目の前の相手に言いたいことを伝えられないときがよくある。むしろそればっかりで、癖になってしまっている。 しかし最近では、奥の方に固く凝り固めて、誰にも言ってはいけないんだと閉じ込めていた出来事を声にして出す機会が偶然続いた。伝えて人が離れてしまってももう仕方ない、と思いながら話したところ、どれも「笑いに転換する」という結果になった。今まで奥にどんより

          自分が思っている"こんなこと"は、相手からしたら"そんなこと"だったりする

          広告を好きになったきっかけ~転職を決意するまで

          はじめまして、みです。 高校生の頃から文系に興味があったのですが、実家の都合で理系に進学してここまできました。 そして進学し、理系の専攻を活かして就職したものの、広告への興味が薄まらずコピーライター養成講座に通い、現在異業種からコピーライターへの転職活動中です。 1.はじめて目に焼き付いた広告 大学4年生の秋、新御茶ノ水駅の階段に差し掛かるとき、大きな広告に目が留まった。まずそのビジュアルに惹かれ、次にそこに書いてある言葉に衝撃を受けた。「運命を狂わすほどの恋を、女は忘れら

          広告を好きになったきっかけ~転職を決意するまで