冬眠レポート初公開(某大学の倫理学の授業で考えたこと)

尊厳死や安楽死に関して、人間の生きる権利を追求した素晴らしい授業だったので、ぜひ教授が執筆された本を紹介したいところです。(詳細等が公表可能だと分かり次第アップします。詳細が公開可能だと確認できた暁には、担当教授とご執筆された本を紹介いたします。)

ちょうど、身体疾患の体調不良とかも重なっていた時期でした。レポートは提出必須ではなかったので、字数制限に収まるように授業直後に湧き出た考えを綴った本記事の内容はレポート形式に整理や訂正はせず、誰にも見せずに内容を冬眠させてしまいました。思想は他者と共有されて初めて存在し、公表して議論されて初めて意味を成すと思っています。本noteで、特に初期の記事には生死や命、死生観や他者の死、自分の死などが度々綴られていたかと思います。根本的なコアは似ていることもあるでしょう。しかし、これが昨年夏〜秋頃の私の本心です。

質問)尊厳を持って死ぬ権利について、どう思うか。

死は全ての人間に平等に訪れます。それは、自然現象であり、否応なしに全人類、全生物に訪れる現象です。違うことがあるとしたら、それは年齢とその道のりです。ある意味では、全ての人間に唯一平等に与えられているものが死であるとも考えられるかもしれません。すると、死ぬ権利というのも、少し矛盾しているように感じます。死が仮に権利であるとすれば、其処には生きる権利も必要ではないでしょうか?

万人が死に向かって生きていると解釈を変えると、最期の瞬間まで精一杯生きた末に迎える地球での終わりが死であるとも捉えられます。すると、人は死を選ぶのではなく、生き方を選んでいるのです。すると、尊厳を持って死ぬことを選ぶのではなく、最期の時まで尊厳を持って生きる道を選んでいるとも考えられるでしょう。

しかしそもそも、尊厳とはいったい何でしょう? この捉え方も個人差があることでしょう。私にとって尊厳とは、自分らしくあることだと思っています。 お風呂に入る、食べ物を食べる、ベッドで寝る、安心できる環境にいる、可能な限り安らかな気分になりやすい選択ができる、必要以上に苦痛を味わわない、家族や友人と交流ができる。その延長上に、楽しみや安楽な日々があるのではないでしょうか? これらは、最期まで100%保つのは厳しいかもしれません。しかし、自分の意向に沿った、なるべく自分らしい日々を送れそうな選択は選べるかもしれません。

ここで問題なのは、そもそも尊厳のある死などあるかです。 最期は、皆が糞尿を垂れ流し、口を開け、瞼を開けて、血色を失います。その少し前から、呼吸状態が変化する場合が多いです。原因によっては、死期が近づき呼吸状態が変化している最中でも、痛みで唸り続ける者もいます。そもそも、亡くなる前は離床できずにベッド上で排泄をする人も非常に多いです。それでも、その時を何処で誰と迎えるかは選べますし、それまでの道のりもある程度選択できます。過酷な治療である場合、それを受けて時間を延ばすか、受けずに時間が短く終わるか選べる可能性もあります。しかし、実はこの二択ではありません。実は、治療を受けても残された時間が伸びないこともありますし、命を長らえさせるつもりで施した治療が命を縮めてしまう場合もあります。逆に、最も延命効果が乏しいと予想された未治療でも予想をはるかに超えて生きる者もいます。苦痛の程度は違えど、命の長さは選択肢によって変わらない場合も存在します。結局は、何においても、最善の選択はできても、意のままにことが運ぶ選択はないということでしょう。状況によって、尊厳に差は有りますし、比較すると死期の差も有ります。当然、この差が予想できる状況ばかりではありません。すると、結局は本人がどのような道を歩みたいかということが重要になるのではないでしょうか?

また、全ての人間は必ず死にます。すると、産まれたその日から、食事も運動も、ある意味では延命に過ぎないのかもしれません。すると、治療選択だけが特殊ではないとも考えられます。どのような日々を過ごしたいか、それが毎日の選択へとつながるでしょう。すると、病気の治療選択のみが尊厳を守るか否かが問われるのも、少し変な話かもしれません。会社に泊まり込んで、毎日数時間自分のデスクで座ったまま寝るか、会社の床に寝そべって仮眠をとる生活を送る健康成人も、尊厳が踏みにじられた日々を送りながら、突然死の瞬間まで尊厳のない生き方を選びつづけているかもしれません。あるいは、尊厳の踏みにじられた日々の末に、尊厳のある生活に戻れるのかもしれません。

すると、人生を歩む中で尊厳のある生活を選択するか、死期を意識する状態で尊厳のある日々を選択するか、それが本人に委ねられるのは適切だと思います。確かに、この世にはもう二度と経験したくない拷問のような状況が存在する場合もあるでしょう。それを敢えて選ばない選択が、結果的に尊厳をもう少し尊重した選択になるかもしれません。しかし、これは死に方の選択ではないと思います。たとえ、この選択が別の選択肢よりも結果的に生きれる時間が短いものだとして、拷問だと知っている道を回避しただけに過ぎないしょう。同時に、尊厳を放棄する日々を歩む選択によって、もしも命が長らえる可能性があるならば、それを選択したいと思うかは本人次第だとは思います。尊厳か死期を早めるかの二択を天秤にかけ、死期を早めるオプションを選ぶという理由からではなく、尊厳を最も優先した自分らしい生き方を最期まで追求したいという、積極的にポジティブな理由からの尊厳重視の選択は十分に良い選択だと考えます。これを尊厳死と呼んでしまうのは、少し切なく感じます。

昨今のメディアでは、生死は人間が左右でき、命の選別という概念自体が少しずつ受け入れられている印象です。命の選別をする方法の是非は問われますが、その背景にある命の選別という概念の議論はめっきり減ってしまったようにも思います。なので、今回の授業は非常に新鮮で、同時にどこか懐かしい、非常に尊いものでした。昨今、ある意味死が解決策のような意識づけとも捉えうる作品もありませんか? これは、尊厳死という言葉にも含まれているのではないでしょうか? あたかも、尊厳死たるものを選択すれば、最期の尊厳が保証されるかのように聞こえます。同時に、それで選択するのは死です。この言葉は、若干ミスリードな表現に感じてしまいます。死、それ自体に尊厳や権利があるとは呼び難いでしょう。しかし、人生のどのステージにおいても、尊厳を重んじ、最期が近い時期にもその選択を突き通す生き方は、個々の価値観で選ぶことは適切だと思います。確かに、病院のベッドで誰にも看取られずに亡くなってしまうのと、自宅のベッドで家族に看取られるのとでは尊厳が違うでしょう。残り数週間から数カ月の命を病院で家族から隔離されて過ごすのと、自宅に帰って会いたい人に会い、好きなものを口にできる中で最期を迎えるのでは違います。しかし、焦点を当てるべきは、最期まで尊厳のある生き方を選んだという、生き方の選択だと思います。最期の尊厳を最大限にする考え方を肯定した上で、尊厳死という言葉や死を権利だと捉える概念には抗議したいです。

読み返すと、脳炎ってめっきり知能指数落ちるのが分かる文ですね😅。

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