「許し」とは?

「許す」これがどういう現象なのかが正確には分からない。

辞典曰く、赦すとは以下のように定義されている。

過失や失敗などを責めないでおく。とがめないことにする。
ーーーgoo辞典ーーー
ーーーweblio辞典ーーー

責めない。

咎めない。

これは相手にやらないのであって、本人が心から赦すのとは違う気がする。

現に、「医療ミスがあった」という時、それ自体には怒りながらも、訴訟は起こさないという選択は、必ずしも相手を赦したから咎めないのとは違う。

力が及ばないのと、ミスは違う。

例えば、人工呼吸器の操作を誤ったが、長期的な後遺症は残らなかった場合。ミスは存在した。しかし、過失は……苦痛があったのだから、過失はあるわけだが、何年も法廷で争うほどの過失はないのかもしれない。

これでミスを咎めない患者は、泣き寝入りしたのであって、赦したとは言い難い気もする。

負けるが勝ち、ということで、赦したのだろうか?

逆に、「この治療を行わないと命が危ない」という場面でその治療を拒んだ医師がいたとしよう。必要性が理解できずに拒んだのであれば、厳密にミスとは呼ばれないかもしれない。しかし、それで命が脅かされ、患者が長期的に大きな不利益を被った場合、結果的には過失や失敗があったとも言えるのではないか。

法廷で争えば勝つ可能性もあると思いながら、貴重な時間を訴訟に費やす不利益、相手の根回しで勝訴に勝る不利益を被る可能性を考えたら、告訴などしない方が自身のためだと思い闘いを始めなかった場合。

社会的に咎めないという行為は、「赦し」とは別の理由が原動力の場合もあろう。

すると、単に「責めない」や「咎めない」というのは、どうも腑に落ちない。

公には咎めておらずとも、心の中では責めている。

逆に、このようなこともあるかもしれない。

人生の損害が大きすぎるから賠償金を必要とする状況にあるとしよう。しかし、思い返してみたらちょっと責められないとは思い、心では責めていないが、訴訟により賠償金を請求している。目的は咎めることではなく、損害の回収だとしても、行為としては咎めていることになるのではないだろうか?

この場合には、赦しているが、咎めてもいるのだろうか?

しかしそもそも、過失や失敗を「しょうがない」と思えたとして、起きてしまったことに不快感を持たず、それに影響もされないというのはなかなか難しい。

プラスなことであろうと、人は自分の身に起きたことには影響を受ける。

言葉で許したと言い、咎める行為はなく、態度でも責める様子がないとして、それでもその事態が起きた場所に行ってしまった自分を責めている場合、結局は赦せてなどいないのではないだろうか。

赦すべき対象が加害者なのか、加害者と関わってしまった自分なのかの違いはあれど……

根本的なところで「赦し」に至ってはいない。

では、セラピーを受け、状況を受け入れ、誰のせいでもなく、天命だと思えたとしよう。それは赦したと呼ぶのだろうか? それとも、問題意識の消失と呼ぶのだろうか?

すると、心から平静に至るためには、「事故」や「事態」が何であれ、それを不快にすら感じず、「問題」としてすら感じない心、悟りの境地に達することが赦すということをも包括しているのだろうか?

「私の罪をお許しください、

私が罪人を許すが如く。」

神は寛大で悟り以上に悟っている存在だから赦すも何も、全てを受け入れるのだろうか?

信じる全ての者を受け入れる神は、同様にそれをできてはいないが、あるべき姿に近づくべく努力をしている者も受け入れてくれるのだろうか?

赦す、許す、言葉に出し続ければ、心が寛大になるのだろうか?

私には、結局、「赦す」という言葉の意味を心身で本当には理解できていないように思う。

そもそも、「赦す」というのは、いったいどのような心情を表すのだろう?

どのような心身の状況、魂の状況が「赦した」状態なのだろうか?

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