見出し画像

【エッセイ】人の「善意」に思うこと

昨日、自宅近くの横断歩道の前にて。
遠くから、救急車の音が聞こえる。

信号待ちをしている私の目の前にいる車たちも、それに気がついたらしく、とりあえず道の端に寄って真ん中をあけるような素振りを見せる。

私も、青信号になったけど渡らない。

見も知らぬ「誰か」のために、みんなが道を譲る。

何となく気が向いて調べてみたら、そうか車は緊急車両に道を譲りなさいという法律があるのか。

自分が運転をしていたときも、譲ることが当たり前だったから特に意識をしていなかった。

世の中どれくらいの人が「譲ることが法律で定められているから」と道を譲っているのだろう、などと取り留めのないことを考え始める。

ちなみに、歩行者は緊急車両がというより、消防車の場合には譲れという決まりがあるらしい。
となると、私はあのとき、救急車に対して善意で青信号を譲ったことになる。

意図せず、それをするのが当たり前の世界に生きている自分を、幸せな人間だなとありがたく思う。


これまでも度々話しているが、私は「徳を積みがちな人生」を歩んでいる。

徳を積みがち。
言い換えるなら、善意を試され続ける人生と言ってもいい。

いつだって気がついたら、私の前で小銭がばら撒かれるし、視界の端でおばあちゃんが転ぶ。

自転車はドミノ倒しになるし、迷子のちびっこは泣きだすのである。

イタリア語でどこぞへの行き道を聞かれたり(すみませんさすがにわかりません)、ホームの溝にはまって電車のドアに挟まりかけたスーツケースを救出したり、そりゃもう枚挙に暇はない。

某名探偵少年が、移動する先々で事件が起こっていることに、親近感を覚えるレベルだ。…もう家におれ。

そういう、突発的なイベントが発生しがちな人生を歩みすぎて、もはや私がその要因を纏っているのではないかとすら思う。

私は日々、試されている。

善良な人間であるかどうかを、優しい人間でい続けられているかどうかを。

可能なら、無理のない範囲で「善良な人間」でありたいなあ。
「優しい人間」で、ありたいなあ。


同時に、きっとどこかで誰かが私に「善意」をくれている。

こないだ、「ああこれ良いなあ」と思ったものがあったのだけど、何も言っていないのにそれを購入してプレゼントしてくれた人がいた。

これも、立派な「善意」だ。たまらなくなった。

それを見て「ああ、唐仁原が欲しがるだろうなあ」と思ってくれる人が、この空の下にいる幸せたるや。

そしてさらに、それを思うだけでなく、わざわざ買って渡してまでしてくれる人の尊さたるや。

人を癒すのは、何も直接的な「善意」だけじゃないんだよなあ。

手のひらにある優しさを、素直に嬉しく思う。

そして、無自覚に受け取っているだろう誰かの「優しさ」に心の底から感謝をしたくなる。


何も上手く言えないけれど、本当に「みんな優しくあれ」と思う。

優しくされたければ、まずは自分から優しくしたらいい。
「善意」は、きっといつか巡り巡って自分に返ってくるものだ。

そういうと、見返りを求めて他者に優しくするのはどうなのだろうと少し思うけれど、何だろうそうじゃないんだよな。

「誰か」が発信源にならなきゃ、始まらない連鎖がある。
優しい気持ちになれるきっかけなんて、多ければ多いほど良いと、思うのよ。

「善意」の対義語は「悪意」。
言葉の上でいうなら、善悪で対になるわけだ。

「悪意」を抱くより、「善意」を抱く方がきっと心は穏やかに生きられるし、明るい道を歩いていける。

綺麗事でも何でも良いよ、笑うなら笑えばいい。

そんなことを思いながら、今日も私は、雨の中で傘をささずに踏切が開くのを待つレディに、軽率に声をかけたのであった。

「…踏切が開くまで、ちょっと傘入りません?」←ゴリゴリの関西弁イントネーション

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?