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【ショートショート】 椅子の話

 その部屋には、革張りの立派な椅子があった。
 見た目どおりどっしり重くて、簡単には動かせないくらいの一人掛けソファーのようなものだ。

 長い間、それなりに手入れをされてきたのだと思う。触るとつるつるしていて、ぴかぴかに光沢が出るくらいよく育った・・・・・革だった。

 それは、祖父の家の西側にある、風通しのよい部屋に置かれていて、よく祖父が西陽の眩しさの中まどろんでいるのを見かけた。
 夏場は暑いくらいだったけど、縁側がありそれなりに庇があったのでそこには優しい影ができていた。

 私は、椅子もその椅子に座る祖父も、何ならあの西陽に浸る椅子と祖父をそのまま丸ごとを愛した。

 祖父がだんだんと、生きることに鈍くなっていっても、椅子は変わらずどっしりを祖父を抱えていた。それを見ると安心した。椅子と祖父はいつも一緒だった。

 顔を見せに行くと、祖父はいつも「よお!」と口の端を片方だけ持ち上げて、何だかニヤリとした悪い顔で笑うのだ。私も、同じようにニヤリとしながら「よお!」と返す。

 祖母は何年か前、ひと足先旅立っていたので、ここ数年は祖父の家の近所に住んでいる私の家族が、できるだけ顔を見に行くのが暗黙の了解になっていた。

 母はあまり気乗りがしないようだったけど、私は祖父が好きだったからしょっちゅう様子を見に行くような顔をして、家に上がり込んでいた。

 祖父とは、ただ一緒に野球を観たり、学校はどうだ?なんて聞かれて世間話をしたりするくらいだった。もうとっくに学校なんて卒業していたけど、そんなことは些細な問題だったので、私は気にも留めなかった。
 日々、公園の桜が綺麗だったよとか、表にアゲハ蝶が飛んでいたよとか、そういう報告を嬉しそうに祖父は聞いていた。

 本当に数日前まで、それが当たり前だったのに、ある日突然祖父はいなくなった。

 あまりに突然で、私は全く自覚しないままお通夜を経てお葬式に出て、火葬場に着いて行き、随分と小さくなった祖父を抱えて帰ってきた。

 悲しくなかったわけではない。それでもどこか他人事のような、自分と遠い誰かの物語を見ているような感覚でいた。
 多分、悲しさが忙しさに押し流される私の心に追いついていなかったのだと思う。

 祖父の家に祖父と帰宅をして、あの椅子のある部屋に入る。

 こんなに立派な、祖父が愛した素敵な椅子がここあるのに、そこに座るはずの祖父はどこにいってしまったのだろう。

 いつもの場所に祖父がいないという、ものすごく不思議な感覚にふわふわしながら、私は何かに背を押されるように椅子に向かった。
 
 そして、座った。
 祖父を膝に乗せて、椅子に深く腰をかけ深呼吸した。もう外はすっかり暗い。どこからか虫の声が聞こえる…。何の気なしに、椅子に座ったまま周囲を見渡す。

 「…!」

 祖父の真似をして椅子にしっかり腰掛け、近くにある本棚を見上げたとき、思わず私は息を呑んだ。

 そこには、私や私の父母の写真があった。

 しっかり座ってくつろぐ体勢になったとき、ちょうど視線の先にそれら写真は、あった。それに気がついた瞬間、私は見逃していた悲しみにすっかり捕まってしまった。
 

 別の部屋から呼んでも、返事をしなくなった日の悲しみ。
 顔を見て耳元でゆっくり話しても、思いがうまく伝わらなくなったときの悲しみ。
 私を見て、介護士さんの名前を呼ぶようになった夜の悲しみーー。

 祖父を愛しているがゆえに、飲み込むことが出来ていたたくさんの悲しみが、喉の奥から溢れ出てくるようだった。

 私は、心許ない白い箱を抱きしめてわんわん泣いた。こんなに泣いたのは人生ではじめてと言えるくらい、声を上げて泣いた。

 祖父はいつもこの椅子で、私たちの写真を見て何を思っていたのだろうか。

 夏の暑い日、冬の寒い日、暗い雨降る夜、眩しい朝日の中…。

 そうして革の椅子に座った私は、どっしり重くて簡単には動かせないくらいの気持ちと祖父の思いを抱きしめて、飽きるまで夜の底で思い切り泣くことにした。


(1639文字)


=自分用メモ=
想像したとき「絵」として浮かぶような情景を言葉にしたかった。愛でた革製品の、つるつるした感触が好きなので、それも質感を添えるために書き加えたくて革の椅子にした。家族愛の真っ直ぐさを、真っ直ぐ書きたいとも思った。今は亡き自分の祖父たちを思い出しながら、できるだけ真っ直ぐ書いた。

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