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【ショートショート】 「自分」の覗き方

ふと思い立って、とあるSNSを始めた。

きっかけは大したことではない。
友人と話をしているときに、「名前や性別、年齢などを言わずに自分を説明できるのか」という話題になり、単純に気になったのだ。

当たり障りのないIDでアカウントを作る。
タイムラインが静か過ぎるのも寂しいかと、コーヒーのチェーン店とか好きな漫画家さんとか、空の画像を投稿してるアカウントをフォローした。

その後、いわゆる鍵をつけること無く「公開状態」でやってみることにした。

何だってよかった。

自分でありながら、自分ではない「自分」になって見たかった。名前も性別も年齢も関係のない、自分を脱いだ「自分」に会ってみたかった。

『テスト』

記念すべき一言目の書き込みは、「テスト」の三文字。まだまだ自分を脱ぐことに抵抗がある、手探りのスタートだ。


その日から、好きなことを好きなときに、好きなように呟いてみることを心がけた。

自分で決めたルールは一つ、年齢や性別など投稿主がどんな人間か具体的に想像できそうなことは投稿しないという点だけ。

毒にも薬にもならない投稿を重ねていくうちに、意図せずだんだん投稿する内容の文章が長くなるのを自覚した。
そして同時に、自分という人間の心の動きを箇条書きにしているような感覚にもなってきた。

僕は「自分の正体」を、この目で見てみたくなったのだ。


『5月の始まり』

『雲ひとつない晴れ。ナイス』

『傘を忘れたのに、雨が降りそうでやばい』

『昔いいなと思った花の名前を思い出せなくて悔しい』

『自分が何をしたいのか、いまだによくわかってない。どうしよ』

『深夜に飲むミルクティーの美味しさがわかる人とは、仲良くできる気がする』

『小銭を落としてたばあちゃんを手伝ったら、お礼に飴もらった。いちごミルクは可愛すぎ』

『帰り道歩いてたら、知らない家のお風呂から子どもの歌声が聞こえてきたの、可愛くて良かったな』

『前に住んでいた所の近くを通ったから、見に行ってみたらもう知らない人が住んでて何かエモい気持ちになったーー』


途中、数学の授業が眠たいとか、健康診断でまたが身長が伸びて憂鬱とか、そういうことを書きそうになったけど、ルールを思い出して思いとどまった。

自分を脱ぐためには、そういう情報がノイズだと感じたからだ。

コーヒー豆のキャンペーン情報や新作漫画の情報に紛れて、自分が過去に投稿したものが並ぶタイムラインを眺める。

そこには、ほぼ素っ裸な自分の中身、ほぼ僕の主観だけが並んでいて、「自分の正体」が少し見えた気がした。

「…なるほどなあ」

これを見る限り、僕はわりといいヤツなのかもしれない。
自分がどういう人間か、中身だけでも説明することができそうだと思って嬉しくなり、ふふっと笑った。


『自分は自分が思っているよりも、ずっといいニンゲンな気がしてきて、嬉しくなった。今日は帰りにミルクティーを買って帰ろうと思う!』


(1181文字)


=自分用メモ=
かつて自分がやっていたことに、ヒントを得て書いてみた。
主人公を出来るだけボカしたくて、「僕」の一人称をはじめは「自分」にしていたが、自分だらけで読みにくくなったためやむ無く「僕」にした。
読み終わったいま、読み手の中に「数学とか言ってるから学生か…?僕と言ってるから男の子か…?でもボクっこかも知れんし、背が伸びることを嫌がってる…?」とボヤボヤした存在が想像されてたらそれは狙い通りなので嬉しい。

名前や年齢性別に囚われない世界って、どんな風に表現できるだろう。好きなこと苦手なもの、夢や憧れを語ることでも、十分「自分」を説明することはできると思う。
その説明材料を、これからも自分の中に探していきたいなと改めて思った。

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