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【ショートショート】 ポラリスの瞬き

 あるとき、お姉ちゃんと喧嘩をした。

 大きな声で泣きたかったけれど、ママにうるさいと叱られるのは嫌だった。それに、どうせ口が達者なお姉ちゃんの言い分が通って、私が「あんたはまだこどもなんだから!」と言われるのがいつものことなので、声を出して泣くことをできるだけ我慢した。

 我慢はしたけれど、涙は勝手に出てくる…。

 そういうとき、私はよくポラリスのまあるい後頭部に助けられた。

 金色がかった茶色い毛で、ふわふわに包まれている優しい後頭部にそっと顔を寄せて、涙を拭いた。何度も何度も拭いて、大きな後頭部をぺちゃんこにしてしまうこともあったけれど、ポラリスはいつも気にした様子もなく、そこにいた。

 そっと、まばたきをする──。

 あるとき、テストでうっかり失敗をした。

 失敗に気がついたとき、悔しくて悔しくてたまらなかったけれど、全部自分のせいである以上、泣くわけにもいかなかった。
 私は「私」をコントロールすることが、なかなか大変だということを徐々に学んでいった。悲しいときだけではなく、悔しかったり腹が立ったりしても涙は出るのだということも、だんだん学んだ。

 学んではいるけれど、涙は勝手に出てくる…。

 そういうとき、私はよくポラリスの首に抱きついた。

 昔は両手に抱きしめきれないくらい、大きかったポラリスの体は、気がつくと私の腕にだいたい収まるくらいのサイズになっていた。
 よりいっそう、金色がかった茶色い毛はふわふわで、深呼吸をすると揺るぎない「生き物のいのちの匂い」がした。それを、深呼吸して胸いっぱいに吸い込むことが好きだった。
 首根っこに抱きついて深呼吸を繰り返す私に、少しばかり迷惑そうな顔をしつつ、それでもポラリスは、いつもそこにいた。

 そっと、まばたきをする──。

 あるとき、学校でひどく嫌なことがあった。

 家の外で泣くことは絶対にしたくなくて、唇を噛み締めて教室を出て、電車に乗り家のドアを開ける。そのまま靴を脱ぎ散らかして居間に進み、丸まっている金色がかった茶色い毛玉を見つけて鼻をすすった。その音に、ポラリスが顔を上げてくれる。
 私はこのくらいのときに、どれだけ話し合ってもどれだけ自分が努めても、わかり合えない人がいることを知った。

 知ったはいいけれど、涙は勝手に出てくる…。

 そういうとき、私はよくポラリスに語りかけた。

 聞いているような顔をして、いつも笑ったような表情で私のことをよく見ている。その顔を見返すと、前よりも少し茶色が淡くなって金色に近づいたように感じた。
 ブラッシングが好きなポラリスは、毛の色が多少淡くなってもいつもツヤツヤとしていた。
 そのまるで笑っているかのような表情を見て、安心した瞬間声が出るくらい大泣きをしたこともあった。訳がわかっているようないないような…。静かに私の涙に濡れた頬を舐めて、ポラリスはいつもそこにいた。

 そっと、まばたきをする──。



 ──気がつくと、ポラリスは随分白い犬になっていた。

 金色も年を重ねていくと、天使の色に近づくのかというような冗談を口にした父に、本気で抗議した。
 天使になんて、ならなくていい。ずっとここにいたらいい。何なら化け犬になってくれてもいい。私がずっとブラッシングをして、ずっとずっとその身体にキスをしてやるんだ。

 ポラリスは、その名のように日々懸命にまたたくようになった。

 ついたり消えたり、不安定ないのちの星が、刻一刻とまたたいて煌めいていた。

 命に限りがあることを、私はようやく理解した。

 理解はしたけれど、涙は勝手に出てくる…。

 そういう夜、私はゆっくりゆっくりポラリスの身体をさすった。

 静かに夜は過ぎて、朝が来る。
 私はどうしても外せない仕事があって、「お願いだからまだどこにも行かないで」とポラリスに頼み込んで仕事に出た。

 どうしていのちの終わりに順番があるのだろう。

 できることなら、大切ないのちが遠くにいくとき自分も一緒に行くとか、あるいは自分が旅に出るまで待っていてくれたらいいのに、なんてどうでもことを考えて、必死に一日を過ごした。

 その日、私はポラリスの好きなヨーグルトを買って、全力で走って帰った。大人になってから、こんなに全力で走ったことは今までに無いくらい、走った。

 泣きながら走って、泣きながら家のドアをあけ、ポラリスに抱きついた。

 いつも私のそばにいてくれた、従順で純朴な星は、まだ消えない。
 私より先に帰宅していた姉に代わって、そっとその頭を膝に乗せ、手のひらで優しく撫でる。泣きながら見守る家族と共に身体をたくさんたくさん撫でる。

 その優しいいのちのまたたきが消えないように、みんなで手のひらを重ねて守る。

 ポラリスが、そっとまばたきをする──。

 そのまま、その瞼が開くことはなく、私たちの重ねた手のひらから、いのちが一粒溢れて流れる。

 こうして善良ないのちは、抜け殻だけを私たちに残して星に還っていった。


 北極星がよくまたたく、夜のことだった。


(2043文字)



=自分用メモ=
実家にいる犬に久々に会って、いつか来るかもしれないそんな日に思いを馳せ、べそをかきながら書き上げた。
タイトルを「瞬き」として、「まばたき」と読む場所と、「またたき」と読む場所を設けてみた。

私はあの生きる毛玉のいのちほど、優しくて従順で純朴で善良ないのちを知らない。この話が実話になるのは、あと100年くらい先の話だと、信じている。

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