【ショートショート】 ある木の下の物語
その丘の上には、立派な木があった。
何年も何十年もそこに生きて、静かにこの世界を見守っているような立派な木だった。
その木は本当に大きくて、小さな自分には果たしてどれくらいのサイズなのかの全貌すら掴めないくらいだった。
ときどき幹をかけ上がり、てっぺん近くまで行って下を見ると、まるで世界中が自分のものになったような気がした。そんな錯覚をして楽しんだ。
上からぼんやり遠くを眺めることが好きで、度々一人で登っては楽しんでいた。
そのうちこの木の下で、いろんな物語が動いていることに気がついた。
あるときは、子どもたちが幹に縄をつけて、回して跳ぶ遊びをしていた。
笑って走って、跳んで転んで、日が暮れる頃にはそれじゃあまた明日と言って帰っていく。
その賑やかさを嫌がる仲間は多かったけど、こちらの姿を見られさえしなければ、何もややこしい問題はない。むしろその賑やかさが、自分には眩しくて見ているだけで楽しい気持ちになった。
あるときは、学生服を着た少女が一人、木陰に座って本を読んでいた。
流れる時間に浸りながら、ゆっくり捲られるページを眺めて、どんな世界がそこに広がっているのだろうと妄想した。
一度、伸びをした時に手元にあった葉にぶつかり、それを下に落としてしまったことがあった。少女の読む本の上に、ちょうど落ちた一枚の葉。それを手にとって眺め、少女がこっそり笑ったのを見て、言葉にできない優しい気持ちになった。
あるときは、恋人たちが木の下を待ち合わせ場所にしていた。
夜の闇に紛れて、人目を盗むように落ち合い、抱き合って静かな声で語って微笑んで、口付けを交わし別れていく。
こっそりと繰り広げられる、二人だけの時間を守るように木は泰然とそこにあった。いつか自分にもそんなあたたかい時間を共有するような、素敵な相手ができるのだろうかと、不思議な気持ちで見守った。
そんなようにして、この立派な木の下で、静かにそして緻密に編まれていくレースのような時間は、私に「世界の広さ」を教えてくれた。
小さな私にとって、この世界は何もかも大きかった。
そして、その大きさを知るがゆえに、自分がいかに小さい存在なのかを私自身、よく理解しているつもりではいた。
ある日、おしゃべりなハトがどこからか飛んできて、突然話しかけてきた。
「やあ、またそんなところにいるのかい、きみはよく高いところにいるね」
「…」
私はあまりこのハトが好きではないため、返す言葉に悩む。そんなこちらの様子を気にする素振りも見せずに、ハトは勝手に話し続ける。
「こんな低いところでしか、世界を見ることができないなんて…。君たちみたいな翼を持たない生き物は、狭い世界で生きているんだねえ」
「…きみにとっては狭い世界に見えるかもしれないけれど、私にとっては十分すぎるくらい広い世界だよ」
言われたことへの抗議の気持ちが、トゲのように言葉に紛れる。
「まあそうカッカするなよ。向こうの山、見えるかい。あの山の上には、この木の倍は大きな木があるんだよ」
「…そう」
「この木よりもずっと立派で、根の周りには囲いがされていて、たくさんのニンゲンが大切に手入れをしていてね」
その後、ハトはいかにその山の向こうの大きな木が立派かを語り散らかして、満足したら「かわいそうに、また聞かせてやるよ」と言って去って行った。
何か言い返そうと思ったけれど、何もうまく言えそうになくて、ハトが去るまでの時間は適当な相槌だけを打ってやり過ごした。
ハトが去ってしばらくしてから、私は思わず大きな声を上げた。
「根の周りに、囲いがされているだって!」
それじゃあ、どうやって子どもたちは縄遊びをするのだろう。本を読むとき、どこに寄りかかるのだろう。人目をこっそり避けるとき、何の影に隠れるのだろう!
この木だって、きちんと手入れをしてくれるおじいさんがいることを、私は知っている。
おじいさんが丁寧に木の様子を点検して、しわしわの手で幹を撫でる姿に、ほうとため息をついた日のことを思い出しながら、私は憤慨した。
「世界は、広い!そんなこと、十分知っている。そしてこの木のてっぺんから見える限りの範囲であっても、世界の広さには触れられる!そのことも、私は知っている!」
その丘の上に今日も木は立っている。
葉の隙間に、小さな怒れるリスを抱き、風に枝を泳がせて、ざわりざわりと笑うように大きく揺れながら。
(1811文字)
=自分用メモ=
「リス」を最後まで明記しない方法を模索して書いた。今回、話に使うタネにした単語は「おじいさん」と「夜」。いつかこの単語をランダムで募集とかしてみたいな、なんて思ったり。
自分の知る世界が「そんなに広くない」ということを知りながらも、その世界にだってさまざまな変化や事件は起こる。世の中なんて、そういうものだ。
この場合、ハトとリスどちらの方が世界を知っていることになるのだろう──。
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