【ショートショート】 休符ちゃん
ある日突然、学校に行けなくなった。
行きたくなくなったんじゃない。本当にただ言葉のまま、行けなくなったのだ。
行こうとすると、めまいがしそうなくらい心臓がどきどきする。息がしにくくなって、立っていることすらできなくなって、その場に座り込んでしまう。地べたに座るような、行儀の悪いことなんてしたくないのに。
私の家は、学校のある丘の麓にある。つまり私の家の前を、毎日私と同じ制服を着た子たちが通ることになる。
毎朝、窓の外からみんなの声が聞こえる。
ママは初めの方こそ気にして、その声を聞かせないようにテレビの音量を上げたり、あからさまに声のトーンを上げて、お姉ちゃんや私に話しかけてきたりしたけど、最近はそんなこともなくなった。
諦められちゃったのかな、呆れられちゃったのかな。
がっかりさせたかなといろいろ思うことはあれど、それを直接ママに聞く勇気なんてなくてそっとしている。
「お姉ちゃんと同じ学校に行く!」と喜んでいたときの私は、もうここにはいないらしい。
私はいつまでこうしているのだろう。
ふとした瞬間に、普段は気づかないようにしている漠然とした不安が襲ってくる。
ほんの数ヶ月前まで、吹奏楽部で朝練にも行くくらい、朝から晩まで張り切って学校に行っていたはずなのにと自分にがっかりも、する。
初めて「学校を休みたい」と言ったあの日から、ママもお姉ちゃんも決して私に「学校に行け」とは言わない。ただ、7時の朝ごはんの場には絶対いることを約束してほしいと言われ、私はそれだけは守ろうと努めている。
毎日、何とかせねばと制服に袖を通すことだけはしていたのだけど、制服を着た途端に濡れたタオルを口に当てられたような息苦しさを感じ、慌てて脱がなくてはいけない事態に陥ることになった。
私はすでに、「自分」を困らせてしまっているので、これ以上誰も困らせたくはなかった。
今日で、何ヶ月経ったのだろうか。
カレンダーをそろそろめくる時期だなということに気がついて、時の流れを自覚したとある朝、お姉ちゃんは突然トーストを齧りながら私をこう呼んだ。
「ねえ、休符ちゃん」
「…え?」
「休符ちゃん、今日の体調はどう?」
ママは、珍しく朝一番から仕事で出掛けてもういない。
「…何?どういうこと?休符ちゃんって誰?」
「ふふ」
それだけだと、やっぱワケわかんないよねーと、コーヒーを飲みながらお姉ちゃんは笑う。
「ママが、あんたのことそう言ってたの」
よくわからないけど、何を言われるのか想像がつかずドキリとして、フォークにトマトを刺したまま私は固まる。
「休符って、どんな楽譜にも基本的に絶対あるの、知ってる?」
「…」
「いま、あんたは休符のターンなんだって」
「きゅうふ…」
「そう。休符」
何となく、フォークをお皿に置く。お姉ちゃんの言わんとすることが、全く読みきれず、話しの先を促すようにその顔を見る。
「私、ママに聞いたの。あの子に学校一緒に行こうかとか、声かけていい?って」
ほら、私もう3年生だから午前中空いてることもあるし。と続けながら、お姉ちゃんは最後の一口になったトーストを口に放り込んだ。
大学3年ともなると、朝から授業を受けなくてもいいことがあるのかと少し驚く。
「そしたら、ママが『あの子はいま、休符を演奏中なだけだからそっとしとこうと思うの』って」
「休符を演奏中…」
「うん。それ自体は単体だと、ただの無音だし意味をなさないように思えるかもしれないけど、全体を見たら必要不可欠なものなんだってさ」
見慣れた、吹奏楽の楽譜を思い浮かべる。
そこかしこに、休符はある。
「演奏中、休符だからってさぼってる訳じゃない。それと同じで、いまはあんた自身も人生の楽譜の『休符を演奏中』なんだって」
我がママながら、いいこと言うー!って思ってめっちゃ納得したんだよね!と、コーヒーの入ったマグカップを両手で包みながら、お姉ちゃんはそう言う。
「そっかあ」
私も、何だかすごく納得できた。私はいま、さぼってるわけじゃない。ママにもお姉ちゃんにも、そう肯定してもらえたような気がして、思わず涙が出そうになる。
「音楽は止まらない。いつかまた奏でる順番が回ってくる。今は他の誰かが輝くときだから、あんたは休符でいいってわけ!」
うん、うんと声に出さずに頷く。
お姉ちゃんは、そんな私を見てにっこり笑う。ママそっくりな笑顔だ。
そしてそんなお姉ちゃんに、小さい頃からそっくりだと言われ続けてきた私も、きっと笑うときは同じような顔をしているんだろうな、と思う。
そろそろ窓の外が、ざわざわし始める時間。
お姉ちゃんと2人、ゆっくりマグカップを撫でる。
私はゆっくり深呼吸をして、今日は久しぶりに楽器のお手入れをしてみようと思った。
(1930文字)
=自分用メモ=
そろそろ5月も終わり。春先の疲れがあちこちに出る頃だけど、それはきっと「あなたが休符のターン」に入っているだけ。
「何もしない」を「する」必要がある時期が、人生の中にはきっとあると思う。そんなときのことを考えながら書いた。素敵な家族だ。ただの完璧な家族にしたくなくて、そっと3人家族という設定にして書いた。しあわせの形は、家族の数だけあるのだという意味を込めて。
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