【エッセイ】こどもが見る世界
週末、金曜日。
今日も今日とて風が強くて、冷たい。
あたたかい屋内ですべきことをしている途中、ふとYouTubeで目に止まった動画を観た。
五分足らずの、ランドセルで知られている「セイバン」さんが出している動画だった。
五分でいいんです、ちょっと観てみてもらえませんか。
冒頭二分で、見ている側の世界が一気に変わる。
こどもが見る、世界。
親と子は、原則切っても切れない関係で繋がっている。
生まれたとき、こどもに用意されているのはまず「親と自分」だけの世界だ。
見るものは、親しかいない。そこに兄弟姉妹が加わることはあるかもしれないが、まずは「親」を見ることになる。
逆に言うと、「親」しか見るものがない。一番近くにいて、自分の世話を焼いてくれて、一緒に怒ったり笑ったりする初めての存在は、大抵が「親」なのだ。
ゆえに、こどもはこちらが思っている以上に、「大人の様子」を見ている。把握している。
どういう発言をしたら、どういう行動を取ったら、親の気をひけるか。褒めてもらえるか、愛してもらえるか。
あの小さな体で、まだまだ乏しい経験の中で、そしてほぼ無意識にそういう思考が働いて、彼らは本能で「愛される努力」をする──。
動画冒頭、小さな彼らは「親に愛される自分」でいるためには、何を選ぶべきかを理解していた。
「親が自分に何を求めているか」を理解していた。
それはつまり、「親が求める自分」を理解し、実行していたということだ。
私は、上記の動画を見て、本当にいろいろ考えさせられた。
自分が親に、「好きなものを選んでいいよ」と言われたとき、本当に「好きなもの」を選ぶことができていただろうか…。答えは、否。
私は幼い頃から、可愛げのないガキンチョだった。
自我を持つ頃には、何を言い何をしたら「褒められるか」とか「良い子だと思われるか」を、潜在的に考えて行動する、ちょっと面倒なヤツになっていたと思う。
それには相応に理由があって、ただしそれは誰をも咎めるものではない。
諸々の家庭環境、人生経験の都合により、私は「自分で望んで」そういう自分でいることを選んだ。
何もかも、自分の意思でそうしてきたし、今となってみれば万事平穏な気持ちで語ることができる遠い過去のことだ。
それでも。
今でもふと、欲しいものを「欲しい」と素直に言えなかった日の自分を、思い出すことがある。
三つ子の魂、百までとはまさに…。
動画の締めくくりで、自分の本当に欲しいランドセルを選ぶ子らの、キラキラした笑顔を見て胸を打たれ、さらにそれを笑顔で受け止め、許容する親御さんたちの笑顔に涙が出た。
実際の心中は、もしかしたら穏やかなものではなかったかもしれない。
六年使うランドセル、少しでも汚れの目立たないように…とか、周りの子が選ぶものと大きくかけ離れた色でない方が…とか、親としての悩みはきっと渦巻いていたことだろう。
それらは、間違いなく一種の愛だ。
大切な我が子に、傷だらけのランドセルを使わせてやりたくない。周囲から浮いて、本人が気まずい思いをしないようにしてやりたい。
いずれも、愛ゆえの言動行動で、それをこどもたちは敏感に察知し、一つ目のランドセルを選んだ。
それだって、愛の結果だ。
大好きな親を喜ばせたい。喜んでいる自分を見たら、親が喜ぶことを彼らは知っている。
この色を持って欲しいと思うだろうと、予測が立てられるくらいに彼らは、親御さんのことを見ていた。
親子って、すごい。
こどもって、すごい。
月並みだけれど、そんな気持ちがぐっと胸に込み上げてくる。五分もない動画で、本当にいろいろなことを考えさせられた。
こどもたちは、大人をよく見ている。
後ろに続いてくる若者たちに、常に立派な大人ではいられないにせよ、できるだけ「人として誠実な大人」ではありたいなとしみじみ思った。
あー、いい動画だったな。もう一度みよう。
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