シェア
m_hyugaji
2021年5月21日 14:52
プロローグ 閉塞感の漂う時代、たくさんのヒトミさんたちが、片目を瞑って生きています。 先人たちの言うように、両目を開いて伴侶を探し、片目を瞑って伴侶と暮らし、なんとかなると思っていたはずなのに、なぜだか心が壊れてゆくのです。 先人たちに、可哀想だと思える間は我慢しろと教わって、同情は愛情と同義語なのかと考えたり、いつかは変わるのではないかと期待したり、優しいところもあるからと思い直したり、自
2021年6月4日 21:01
何とかなりますよ 不動産屋の店内には、すごく若い茶色い髪の女の子がいて、一人で留守番をしているのか、ちょっと物憂げな風情で、そして何かを期待するような目でヒトミさんを見て、気になる物件がありましたらご案内出来ますよと言う。 天気もいいし、もしかしたら女の子も退屈しているのかもしれないと思って、あの、これ、とヒトミさんがガラスの内側に貼られた物件を指差してみると、あ、須磨の物件ですね、少し遠い
2021年6月7日 20:56
「厄介な男につかまってしもたんやね」 長屋が立ち並ぶ小さな路地に目的地はあった。四軒長屋の左から二番目。空き家なのが一目でわかる埃をかぶった玄関にたどり着くと、隣家の玄関がガラガラと開き、家の中から素敵な老婦人が出て来た。 ヒトミさんの母親が生きていたらちょうど同じ年くらいだろうと思われるその人は、「あら、サキちゃんのお友達かしら?」と言って、ヒトミさんに挨拶をしてくれる。「私はサキちゃ
2021年6月11日 21:00
遠回りして二月堂へ向かっている スーパーで買った稲荷寿司と鯵の南蛮漬けを食べ終えると、ヒトミさんにはすることがなくなった。結局、リモコンの電池を換えてもエアコンはびくともせず、こんなだだっ広い部屋で、頼りになるのは小さなガスファンヒーターとホットカーペットだけ。十一月の奈良は、どれだけ寒くなるのだろう。 ヒトミさんはお風呂に入って温まり、ホットカーペットの上に敷いた布団の中に潜り込む。寂しさ
2021年6月14日 20:52
「無理に先へ急ぐことはないんですよ」 ヒトミさんが、ヒトミさんの束の間の我が家の玄関を開けると、一晩だけでも人が寝た部屋は、空き家の空虚感が少し和らいでいるようにも見えた。ヒトミさんは、掃除用具がどれほどあるか点検してから買い物へ出かけた。 篠田さんが教えてくれた百円ショップやドラッグストアがあるという商店街へ行き、ドラッグストアの前で店員さんが、日中韓の三か国語で呼び込みをしていることに
2021年6月18日 20:53
「お客さん、運がええなあ」 ヒトミさんはとりあえず朝ごはんを作る。といってもパンを焼いて野菜を切って、卵を焼くか茹でるか炒めるかして、コーヒーを淹れるだけ。そして出来ればオレンジジュースがあるといい。朝にオレンジジュースを飲むと、昔、一人で行った海外旅行先での楽しいホテルの朝ごはんのことを思い出すからだ。 ヒトミさんにとってごはんを作るのは楽しいこと。食べるのも楽しいこと。「楽しいことだけをし
2021年6月21日 21:01
「たまには人に甘えなさい」 こじんまりとしたアットホームなレストランで、きれいに糊の効いた白いテーブルクロスのかかった席に案内されて、「ワイン飲める?」と篠田さんが聞く。 ヒトミさんがハイと答えると、篠田さんは白ワインを二つ頼んでから、「本日のランチでいいわよね」と言い、ヒトミさんはまたハイと答える。 篠田さんは、テーブルへ水を持って来た感じのいい女性スタッフに「ランチ二つね」と言ってから、
2021年6月25日 20:51
とても幸せだった 賑やかな一団にしばし別れを告げ、ヒトミさんは一度家へ戻ってから、買ってきた食料品を冷蔵庫に仕舞い、急に冷え込んできたのでセーターを着込み、篠田さんからもらったストールを巻く。 そして、さっき百円ショップで買った質の悪いレギンスをジーンズの下に履くと、安かろう悪かろうの品は通気性がなくて逆に暑いくらいで、ヒトミさんはちょっと笑った。 これなら冬を凌げるかもしれない。 しかし
2021年6月28日 20:59
闇の中に光があった 篠田さんに教えてもらったバスに乗り、最寄りのバス停で降り、閑静な住宅街を歩く。小さく出ている案内版を見落としそうになりながら、土壁の続く古い細道を進むと、新薬師寺はあった。境内には誰もおらず、本当にここなのだろうかと訝し気に堂内へ入ると、しんとした内部の空気にヒトミさんは圧倒された。 仄暗い堂内には、外からはとても想像出来ない神聖な空間があった。そこは広い空間ではなく