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アップロード、ヒトミさんの場合(6)
「厄介な男につかまってしもたんやね」
長屋が立ち並ぶ小さな路地に目的地はあった。四軒長屋の左から二番目。空き家なのが一目でわかる埃をかぶった玄関にたどり着くと、隣家の玄関がガラガラと開き、家の中から素敵な老婦人が出て来た。
ヒトミさんの母親が生きていたらちょうど同じ年くらいだろうと思われるその人は、「あら、サキちゃんのお友達かしら?」と言って、ヒトミさんに挨拶をしてくれる。
「私はサキちゃんが産まれたときからここに住んでるのよ」
そう言ってお隣さんは、出て来たばかりの玄関からまた家の中へ戻り、大きな赤い鈴のついた鍵を持って来て、ヒトミさんの幼馴染みのサキちゃんの家を開けてくれた。
「時々ね、頼まれて空気の入れ替えをしてんねんけど、掃除まではようせんのよ」
お隣さんは、散らかり放題で埃まみれの部屋を見渡して、ヒトミさんを招き入れ、まずは掃除からねと言う。
そして、まあ、こんなもんまでそのままでと、脱ぎ散らかされたTシャツや、針金ハンガーに干されたままのくたびれたタオルや、台所に転がっているビールの空き缶などを、何となく習性のように片付けようとして思いとどまり、あのね、確かね、鍵はここよと言って、サキちゃんが言っていた台所の窓際に置かれたテーブルの上の伏せられたフライパンをパッと持ち上げる。するとそこに、何もついていない銀色の鍵が、ただ一本姿を現した。
ヒトミさんは、お隣さんの動きと鍵の在りかが面白くて、くすくすと笑ってしまい、ヒトミさんにつられて一緒に笑っているお隣さんのことを、一瞬で好きになった。
「どれくらいいはるの? 休暇?」と聞かれ、ヒトミさんはわかりませんと答える。
お隣さんはびっくりしたような顔になりはしたが、そこは年の功、あとでウチにお茶を飲みにいらっしゃい、ゆっくりお話を聞かせてねと言い、それからいま何時? と思い出したように聞き、ヒトミさんが二時四十分ですと答えると、じゃあ、三時にウチにいらっしゃい、手ぶらでよ、手ぶらで、と念を押し、お隣さんはサキちゃんの空き家から立ち去って行った。
さて、サキちゃんの空き家はなぜこんなに散らかっているのだろう。ヒトミさんはそう思ってすぐに、サキちゃんの大学生になった息子たちが時々友人たちと使っているとサキちゃんが言っていたことを思い出して合点した。
古い空き家の一階はリフォームされていて、道路に面した台所から奥の庭まで細長く多分六十平米くらいはあるフローリングの床には仕切りが一箇所しかなくて、大きな滑りのいい摺りガラスのスライディングドアを閉めると、庭に面したトイレやお風呂や洗面所のある空間が、六畳ほどの日当たりのいいサンルームになった。
二階へ向かう階段は、二間分の押入れの隣の襖に隠されていて、一段踏むたびに舞い上がる階段の埃にむせながら二階へ上がると、手付かずのまま放置されていたのであろう二つの和室があり、かしいでしまって開かない窓は、所々フックの外れたカビ臭いカーテンに守られて辛うじて風化は免れてはいたが、崩壊するのは時間の問題のように思われた。
そして、部屋の隅に古い木の扉が一つあり、格子の桟を横に引っ張ると鍵が開くシステムのそれを開けると、そこには、ホラー映画に出てくるような、汚れが血痕のようにも見える無惨な和式トイレが出現した。
ヒトミさんは一瞬、絶望感に見舞われたが、よし、見なかったことにしようと気を取り直して階段を下り、襖を閉め、この家には最初から二階はなかったのだと思い込むことにした。
自分の心の痛みを何年も見ないふりしてきたヒトミさんである、そんなことは朝飯前だった。
そして電力会社と水道局へ電話をし、止めてあるというライフラインの開栓をしてもらい、といってもブレーカーを上げるだけ、料金の支払い方法の確認をするだけで手続きは終わり、昨日のうちに電話しておいたガス会社の人が来るのは夕方、あとはヒトミさんはお隣さんの家へお茶を呼ばれに行くだけだ。
「厄介な男につかまってしもたんやねえ」
「それは愛じゃないのよ、執着だからね」
「ルサンチマンてゆうのよ、ほら、メモしてたの、恨みってゆう意味」
お隣の篠田さんは、ヒトミさんの身の上話を熱心に聞いてくれ、夫が離婚に応じない理由を分析してくれた。ヒトミさんは何度も夫に別居を申し出たり、別れたいと願ったりしたが、聞く耳を持たない夫は、吐き捨てるように「はあ?」と一言発するだけで、ヒトミさんを怖がらせ、黙らせた。
実際に殴られたことはなかったが、朝から具合が悪くて寝込んでいたときに、行ってらっしゃいも言えないのかと、布団越しに蹴られたことはあった。
「本当に強いのはあなたなのよ、しっかりするのよ」
篠田さんは、ヒトミさんの瞳を見て励ます。
篠田さんの淹れてくれた美味しいコーヒーは、上品なロイヤルコペンハーゲンのカップに入って出てきた。ソーサーに添えられた細いスプーンを幾度も幾度も触ってしまうヒトミさんの動きを見て、篠田さんは続ける。
「奈良は初めて?」
「はい、初めてです」
「ちょうどいいときに来たわね、これからが一番いい季節なのよ」
東京で生まれ育ったという篠田さんは、奈良出身のご主人と結婚して奈良へ来て、もう五十年近くここに住んでいるそうだ。
「だから私の奈良弁はインチキなの」と言う。
篠田さんは、数年前にご主人を亡くしたとき、子どももいない一人身だからと東京へ帰ることも考えたそうだけれど、そのまま楽しい想い出の詰まった家に住み続けることを選び、そしていま、ヒトミさんと話すときは東京の言葉を話すことに決めたようだった。
篠田さんは、奥の部屋から奈良の地図を持って来て、ヒトミさんの前にある空になったコーヒーカップをどけて地図を広げた。
「まずここね」
赤鉛筆でこの家のある場所に丸をつけた篠田さんは、くるりと地図を回してヒトミさんの方に正面を向け、東大寺、二月堂、春日大社、興福寺など、次々と赤丸をつけていき、これね、全部お散歩コースなのよと丁寧に説明してくれる。
「ちょうどいま正倉院展やっとるからね、ここに国立博物館あるから、ここね。すごい並ぶけど、平日の四時頃行けばわりとすんなり入れるはずよ、金曜と土日は夜八時までやっとるから、これは見ないとね」
ヒトミさん専属のツアコンになったかのような篠田さんは、美味しいコーヒーを三杯も淹れてくれたあと、そろそろ買い物に行くわと言って、お皿に盛っていたクッキーやゼリーを可愛らしいナプキンに包んでヒトミさんの手に持たせてくれた。
そして実はさっき玄関で会ったときは買い物へ出かけようとしていたのだと白状して、恐縮するヒトミさんに、話し相手をしてくれてありがとうと満面の笑顔を見せてくれた。
「困ったことがあったらいつでも言ってね」
そう言って大きな字でメモ帳に電話番号を書いて渡してくれたので、ヒトミさんも自分の番号を篠田さんのメモ帳に書きつけた。
ついでに近くのスーパーの位置まで地図に印をつけてくれた篠田さんは、またもらってくるからと、たくさん印をつけてくれた奈良市街の地図をヒトミさんに渡し、お隣のおばあさんがお節介でごめんねと言いながら、お暇するヒトミさんを見送ってくれた。
充実した暮らしの篠田さんの家から、ガランと広い生活臭のない隣家へ戻ると、さっきまでの温かい気持ちがたちまち霧散しそうになる。ヒトミさんはとりあえず布団やシーツを確認して安心し、エアコンをつけようと試みるが、どうやらリモコンの電池が切れているようだった。
そこで早速ヒトミさんは篠田さんの真似をして手帳の紙を一枚破り取り、リモコン用の電池、とメモをする。それからトイレットペーパー、ティッシュ、石鹼、シャンプーなど、ここで暮らすのに必要な備品を書き出していく。そのうちガス屋さんがやって来てガスを開栓してくれたあと、ヒトミさんは近所のスーパーへ行くことにした。
夕暮れどき、奈良の古い町並みは闇に包まれる寸前で、近道だろうと入り込んだ路地沿いの、倒壊しつつある古い長屋から土埃の匂いが漂ってくる。
その匂いは、どこかの台所から漂ってくる晩ごはんの匂いと混じり、ヒトミさんの胸にある種の郷愁の念を掻き立てたが、ヒトミさんにとって、それがどこへの郷愁なのかわからず、わからないままともかく今夜帰る家があることに感謝して歩く。
スーパーは小さいわりに品揃えが良かったので、ヒトミさんの気分はすっかり上向いて、買った荷物を両手に抱えて来た道を戻りつつ、土埃の匂いの奥に冬の香りを嗅ぎ取って、まだ秋の只中だけど、毛糸の衣類が恋しいと思うヒトミさんであった。
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