承認欲求をコントロールする

やさしさは、もらうよりも与える方がいい。

頭ではわかるのですが、なかなかうまくいきません。

どうしても、ほめられたい、認められたい、という気持ちが大きい自分に気づくときがあります。

「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」で有名な心理学者、アルフレッド・アドラーの言葉を借りましょう。

「称賛の要求(ほめられたい)」の目的は、

共同体の中で特権的な地位を得たい

だと言い、問題行動の一つとして取り上げています。

共同体というのは、家族、クラス、サークル、部署など、身近なものに当てはめればいいと思います。

一方で「ほめる」行為は、

能力のある人が能力のない人に下す評価であり、その目的は「操作」である。

としています。

つまり、ほめられたいというのは自分に能力がないと認めると同時に、操作される、服従されることになる、とも考えられます。

いやいや、ほめられなくてもいい、認めてくれればいいの!と思ってしまいます。

でもどちらも意味は同じです。

ただ人から認められる前に、まず自分が自分を認めるべきです。

アドラーはこう言います。

「わたし」の価値を、他者に決めてもらうこと。それは依存である。一方、「わたし」の価値を、自らが決定すること、これを「自立」と呼ぶ。

ほめられたりおだてられたりすると、調子に乗っちゃうわたしにとってはイタイ言葉です。それはお子さま感覚ですね。反省。

自立っていうと社会人になって自分で稼ぐようになった、というイメージがありました。そのことより、内面的、精神的な自立が必要であり、自分の価値を認める、ということです。

さらに「自立」のためにはいわゆる共同体に関心を寄せ、その一員であり、みんなは仲間であり、協力し合うものだということを認めなければならない、とアドラーは言います。

「認めてもらう」のではなく、「認める」のです。与えられるのではなく与える。これこそ、自己中心的な考えからの解放です。

自分のことを認め、人も認める。あとは周りと協力する。共同体と一体となる感覚があればいいわけです。

それでもほめられたい、認められたいのだ!という甘い考えに、アドラーは次のように警鐘を鳴らします。

褒められることで自分の存在が承認されても、その承認欲求には終わりがない。依存の状態に永続的に縛られるだけである。

ほめられたときの感覚って、赤ん坊が母親に抱きしめられているような、甘美な感覚に似ています。

藤原新也さんの「乳の海」では、甘い母乳の海に浸かって抜け出せなくなった無機質な、無感情な世相を鋭くえぐりました。

ふと、アドラーの言葉と共通していると感じます。

自分の価値は自分で決めないと「何か」に依存する人生を歩む、そう言われているようでなりません。

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