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「人の痛みがわかる人に」と願った話【前編】

小学校3年生ぐらいだろうか、私は、こういう「誓い」をたてた。

ただ「なりたい!」と思っただけでなく、これはある程度公言したものだった。たしか、新聞社に応募した作文のタイトルで使ったんだったと思う。

今でこそ、「誓い」という言葉を使うが、当時は本当に、漠然とした、その頃の自分の経験から出てきた、「なりたい自分の姿」だった。

でも、この言葉で、今の私ができているのも、また、事実だと思っている。

そんなわけで、本日は、この言葉から私が選んできた道の話をしてみよう。

いつもより、エピソード多めになるため、字数が多くなると思う…それでも、「私」の軸になった話だから、目を通してもらえたら、とっても嬉しい。

あと、長くなりそうなので、

今回の記事は【前編】【後編】にわけたいと思う。

まずは【前編】私の小学生時代から高校2年生の話で覚えているところを、ざっくりと書いていこう。


「思い出すことができない」経験談の作文

…ただ残念ながら、この当時の事を、私はあまりにも覚えていなさすぎる。むしろ、この頃に私の周囲にいた友人やその保護者のほうが、詳しいかもしれない…確実にあったことなのに当事者が忘れてしまっているんだから、どうしようもない。よって、語りようがないのだが…覚えている範囲でまとめてみる。

一言で言えば、私は「いじめ」に遭った経験がある。特に酷かったのは、小学校3年からのものだろうか…

同級生複数人VS 私(と先生と家族)
期間はだいたい2年間。主犯格は女子2人。
それに協力者の男性が複数人…といった具合。
言葉の暴力もあれば、身体にも少なからず。
個人間に留まらず、学級、学年…学校も、かな…かなり広範囲を巻き込んで大騒ぎになった。
周囲曰く、「学級崩壊」寸前。

ここで、私は、というか両親は、「逃げ」をよしとしなかった。
私は不登校にはならなかった。意地で学校に通い続けた。…そしたら主犯格の一人が転校することになって、そこから多分なくなった。

ただ一度、反撃をした。それはもう、野性味あふれる手段で。…今思えば非常に野蛮なんだけど、当時、私にはそれしか方法が無かったらしい。

主犯格の少女の腕に、私は噛みついた。歯形ハッキリとつけるくらい、思いっきり。

まさに、『窮鼠猫を噛む』状態。

そんなことがあって、私は「いじめ」を乗り越えた。もちろん、乗り越えるまでにはいろいろトラブルは起こっているが、とりあえず割愛する。

…この期間に歪められた認識も相当にある。一時期私は人間不信に陥った。周りにいた友人さえ信じられず、友人たちも怖くて主犯の子達に目をつけられないよう私から離れようとした子もいた、ような気がする。…駄目だ。詳細は、まったく思い出せない。当時を知る友人はかなり心配をしたんだ、と言っていたりしたけど、実感がほとんどない。

ただ、やはりこの時期に私はたくさん傷ついた、と言っていいのだと思う。たくさんの「痛み」をここで知ったんだと思う。そして、その「痛み」が私を大きく歪めることにもなったものだから、その「痛み」を人に体験してほしくないな、なんて思って、作文を書いたのかな、なんて今の私は感じている。

多分、その経験が、これ以上傷つきたくないし、傷つける側に回りたくないから、

「人の痛みがわかる人」になって、傷つく人を減らしたい

…なんてことを考えたのかもしれない。応募した作品の内容は覚えてないし、手元にも多分ないので、自分のことなのに憶測ばかりになるが、今の私から振り返ると、そんな考えだったんじゃないかな、と思う。


「願い」が行動に繋がっていく

「いじめ」を乗り越えた私は、中学生になった。中学生でもまあ、それなりに嫌がらせは受けたりした。これは、私の中学が3つの地域から集まる学校だったからということもある。私の小学生時代を知らない子がいたりしたので、やっぱり誰かしらの『目の上のたんこぶ』的存在には、どうしてもなってしまっていた。先輩や、同級生…少なからず私に冷たい目を向けてくる人は存在したが、支えてくれる人もちゃんといた。部活の仲間、小学生以前からの友人、友人の友人etc…けして、孤独じゃなかった。

ただ、学校の中に、どうしても「嫌がらせ」を受ける子、「居づらさ」を感じる子は存在して、同級生にはその状態に陥った子が数名いて、さらに転校していった子も多くいた。私の周りの友人にも、そんな子がいた。

『相談室登校』って状態はみなさんご存知だろうか?

学級に籍はあるけど、保健室や相談室に普段はいて、授業受けたり、自習をしたりすることを指すのだが、私の友人には、そんな方法で登校を続けた子達がいた。

そんな中で、私は中学生時代は、相談室をよく利用することになる。親しい子がここをよく利用していたので、よく足を運んだ。カウンセラーの方とも、よくお話したっけ…でも悲しいことに、あまり、覚えていない。周囲に心を病む人たちがたくさんいたことだけは、すごくよく覚えてる。彼らが今どうしているか、それはよく、わからないんだけど…

そんなふうに心のケアを必要とする子とよく関わっていた私は、不登校に陥った友人を家から連れ出していく役割を期待されたことがある。そして役割を私は受け入れた。結果として、連れ出した友人は学校を無事卒業できた。たしか、その子と親御さんに「感謝」を言われたことがあったっけ…

自分の行動で、誰かを楽にすることが出来る

ということに気づけたのが、中学生の時の私だったのだと思う。…「願い」はいつのまにか、わたしの目指す姿、「明確な目標」に変わっていた。


「明確な目標」から夢、そして未来の仕事へ

高校生になって、私の将来を決めた「出来事」があった。

小中学校とも、「嫌がらせ」があったことも大きくて、私は周囲の子より少しだけ地域の離れた高校に進学した。理由は、「小中の事を知らない人がいるところに行きたい」だった。結果的にこの選択は正解だったと思う。…どこに行ったって合わない人はいた訳だが、小中に比べれば大したことなかった。やはり、私も周囲も大人になった、ということだろう。

高校時代は、今でも大好きな友達との出会い、劣等生だった私を大学進学に導いてくれた担任の先生の指導、そして、ちょっとだけ苦い経験もした初めてのSNSとの付き合いと、初恋の人との再会…など、実は、話せば面白いことになりそうな話題が多い時期だが、その中でも、職場体験実習のことを話したい。私の行く道を定めた「決定的な体験」の話だ。

高校2年生、家から通いやすい場所で、という希望が通り、中学校校区にある、特別支援学校に4日実習に行くことになった。ここは身体障害者ではなく、どちらかといえば、知的障害があったり、発達障害があったりといった、「見た目にはわかりづらい障害」がある子達の集まる場所だった。

私が関わらせてもらったのは低学年のクラス。授業というよりは、どちらかといえば、一人一人が、それぞれの課題を頑張っていた記憶がある。指導員の先生たちのやり方を見様見真似でやってみるけど、なかなか児童たちには伝わらない。彼等には言葉による「曖昧な説明」は通じにくい。だから、絵や図を多用していた。それらをボードに貼り付ける、剥がす、ポケットしまう…といった行動とセットにして、学校の生活リズムなどを指導していた。やはり、定型発達をしている子達とは、違う振る舞いが多いのだが、見た目は同世代の子たちと、たいして変わらない。

…この見た目ではわかりづらい「障害」によって、たくさんの暮らしづらさが彼等にはあることを、私はここで身を持って知った。ここでの体験が後々とても大きな「課題と目標」に変わり、私は「福祉」の道に進むことを、選択肢の一つとして、考えるようになっていくのだった。


あまりにも長くなってしまったので一旦ここで切ろうと思う。【後編】は大学からアルバイト、卒論、就職、そして仕事を辞めることを考え始める前まで、書いていこうかと思う。

内容自体はそんなに悩むことなく書けそうなので、すぐに出せると思う。

気になる方は、フォローをして待っていてもらえるととても嬉しい。

・・・

ただ、私の経験談を書きなぐっているnoteではあるけど、日に日に読まれる数が増えていってきてるのが、モチベーションに繋がっている。あまり文章を書くのは得意ではないのだが、それでも、誰かに読まれているってだけで、誰かに届いてるという感覚がやりがいになった。

今はできることで、何か価値を生み出したいと思っているので、布団の上から、ろくに動けない私でも続けられるこのnoteは今後も続けたい。

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【追記】後編、執筆完了!


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