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人のためを考えるなんてやーめた。【6言目】

「アナタのためにやったのに!」と不満を抱いたりぶつけたりする光景に遭遇することはないだろうか。
私はしょっちゅうある。
しょっちゅう遭遇して気付いたことは、その想いはすれ違い続けて上手く処理できない傾向にあるということ。

なぜ処理できないのか。

その想いの起因を「自分」ではなく「相手」に転換してるから。

相手のために何かしようと思うのが悪いわけではない。
むしろそれはいいことだと思う。
でも、見落としてはいけないのはその最終選択は自分自身だということ。
そして、その選択の先の結果がどうであれ、その結果の責任も自分自身であるということ。

もし、これが「自分自身」にベクトルが向かず、「自分以外」を要因にもってきたとしたら。
自分要因は自分次第で変えられるが、自分以外の要因はなかなか変えられない。どうしようもないことも多い。変えられないということは解決できないリスクが上がる。そのリスクが上がれば、ずっと苦しまなければならないリスクも上がる。
そして、苦しんでしまったら自己防衛で「あなたのせいで」となるわけだ。
なんて最悪のコース。

相手のためにそうすると決めたのは自分。
決めたのは相手じゃない。

それに、たとえば相手の「したら喜ぶこと」を想像して行動したからといって、必ずしも自分がほしい反応が返ってくるわけではない。
自分の投げたボールを相手がどう受け取るかなんて、100%の確率で分かるわけない。
過度な期待はしないこと。その期待は「見返り」となって、自分も相手も苦しめてしまう。

だから、あくまで「相手のためにそうする」のではなく、「相手のために自分がそうしたいからする」のだ。それをしっかり認識しなければならない。

相手がどうこう関係なく、自分がそうしたいからした。
そうするだけで楽になるんじゃないかなって思う。

小説を書くときも同じだ。
変にこんな感じで書いたら読まれるだろうとか反応がいいだろうとか考えて、自分が好きじゃない、納得いかない作品を書いたとき、それが、「読者を思って」が強すぎると、もし読まれなかった場合、に負の感情が強く喚起される。そして、「読者のために書いたのになんでだ!」となる。

不幸せだ。
そうはなりたくない。
そうなるくらいなら、自分が書きたいものを書いて、反応が薄くても「私は好き」で完結したい。自分の好きなものを好きだと思ってくれる人がいたらラッキーだくらいで。

そっちの方が幸せだと思う。
わざわざ自分から不幸せになりにいく必要はないんじゃないか。

いろいろと考えてみると、人のため優先で生きるのは私には向いてない。自分が幸せな選択を自分の責任でしたい。
だから、もう、人のためを考えるなんてやめた。
まずは自分のために選択する。それができるようになってやっと、本当の意味で人のために自分が選択できる余力が生まれる気がする。

そういう人間になっていきたいな。


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