あの日、満員電車で思いやりを捨てた
平日の17時30分。すぐに満席になった札幌駅から網走駅へ向かう特急の自由席車両。運良く先頭席に座れた私は、座り損ねたお婆さんを見つけて、思いやりを捨てた。
満員電車の35分
その日は数ヶ月ぶりに友達とお茶をしに札幌へ足を伸ばした。
車を持たない私は電車に揺られた後、30分ほど歩いて待ち合わせ場所のブックカフェへ向かう。その後の移動も歩く歩く。
少し歩いただけでいろんな店が立ち並ぶ札幌は、気づくと思った以上に長い距離を歩いていて、帰る頃にはふくらはぎに違和感を感じ始める。
この日の帰りも例外なくふくらはぎはヒクついていた。
改札上の電光掲示板で、美唄駅で停車する電車を探す。見つけた電車は特急。出発時刻は17時30分。時計は17時5分。時間帯は仕事帰りや学校帰りの人が帰路に就き始める時間と被っていた。
出発時刻までまだ25分もあるが、少しでも座って最寄駅から家までの帰路に備えたい。
ホームへの階段を上がると、既に行列ができていた。私も急いで並ぶ。大好きな作家の本を読みながら待つと時間は思ったより早く過ぎて、手持ち無沙汰になることなく特急は目の前に現れた。
その瞬間感じる戦闘感。
自由席は一両。そう、絶対に座ってやるという意気込みが周りからも滲んでいる。私もその一人だった。
いつもより1.5倍速く感じる行列の流れ。
どんどん埋まっていく席。
これは2席空いている場所を探すより片方空いてる席に座る方が利口な気がする。
いつもは大して働かせない頭をフル回転させて、出入り口すぐの先頭席奥に座る同世代くらいの女性に一声かけて席を勝ち取った。
これで安泰だ。
席も随分埋まり始めた頃、「空いてないじゃないか!」とテンション高めに指定席車両へ大きなキャリーケースを颯爽と滑らせる外国人観光客に交ざって、和洋折衷のコーディネートに目が惹かれるおばあさんが席を探す姿を視界の端で捉えた。
席ないのかな、それとも、指定席なのかな。
おばあちゃん、席、見つかったらいいね。
そう思いながら、自由席車両を出ていくおばあさんを無言で見送り、一時SNSを無心で眺めた。
発車して10分ほど経った頃、デッキにいる乗客に反応したのか唐突に出入り口の自動ドアが開いたのに気づいて顔を上げた。
人が入ってくる様子はないが、先ほどのおばあさんがデッキでしゃがみこんでいる姿が見えた。
おばあちゃん、座れなかったんだ――。
頭が働くよりも先に、体が動いた。荷物をまとめて、急いでデッキにいるおばあさんに声をかけた。
「私、先頭席に座ってたからすぐそこなんで、よかったら座ってください」
おばあさんの肩にやさしく手を置くと、おばあさんはつらそうな顔を上げた。
「ごめんなさい。足が痛くて、座っちゃって。ごめんなさい」
謝らなくていいのに、おばあさんは申し訳なさそうに「ごめんなさい」と頭を下げ続ける。
「大丈夫大丈夫。先頭席が空いてるから座ってください。肩貸しますから」
ちょうど開いたドアから席がまだ空いていることを確認する。
揺れる車内。代わりに荷物を持って、おばあさんを席まで案内する。
大学時代の介助ボランティアが活きた。
「ありがとうありがとう」
申し訳なさを滲ませながら、私の両手を包んで、今度は「ありがとう」を繰り返した。
「もっと早く気づけたらよかったのに、ごめんなさい。ゆっくり休んでくださいね」
本心だった。本当にごめんなさいと思ったし、ゆっくり足を休めてほしいとも思った。
仄暗いデッキに立ち、鞄から文庫本を取り出して降りる駅までの残り20分揺られる。
気持ちは穏やかだった。晴れるというより穏やか。
そして、もう一つ。
私は今まで本当の意味で”思いやり”を持って行動したことなんてなかったんだなと気づいた。
”思いやり”とは何か。
私が今まで捉えていた”思いやり”は、本当に"思いやり"だったのだろうか。
嫌な話、私はこれまで、人目を気にしてしか"思いやり"を行動に移せていなかった。
雪崩のように倒れていく自転車を誰のかも分からずに一つずつ丁寧に立て直していく。
電車で高齢者が立っていたら席を譲る。
ごみが落ちていたらごみ箱に捨てる。
優等生であるために、優良な社会人であるために。
嫌々することはなかったけど、どれも人の目を想定して動いていた。
”思いやり”とはこういう行動を言うのである。
そんな風に頭の中で”思いやり”をマニュアル化して、いつしか、それは”思いやり”ではないただの行為になってしまっていたようだ。
今回の行動も、いつもならマニュアルの中に当てはまるはずなのに、どうも自分の中で違うように感じた。
はじめて。そう、はじめただったのだ。
人目を気にせずに、正解不正解を考えずに、人を思って動いたのが。
人に手を差し伸べるとき、「相手が求めていそうだからやる」ではなく、最初に「私がしたいからやる」が来る。これまでは考える順番が逆だった。
相手が求めているかどうかは、行動すれば答え合わせできる。
求めてなければ、困ってなくてよかったと思い、「必要なときは声を掛けてくださいね」と去ればいい。
求めているだろうと決めつけるから、「親切にしたのに」とか「断られたらどうしよう」とかさっきまでの気持ちが一転して靄がかかってしまう。
”思いやり”は人を思いやること。
でも、「してあげる」ことへの答え合わせではない。
「自分が手を差し出したいから差し出す」。
エゴと言われるかもしれないけど、人目を気にしてしか動けないよりはずっとマシだ。
この日、はじめて自分なりに”思いやり”を定義できた。
「お姉さん、席空きましたよ」
おばあさんは席に座ってからも、席が空くたびに空席を指差して声を掛けてくれた。
「ありがとうございます。私、あと少しで降りるから大丈夫ですよ。気持ちだけいただきますね」
やり取りを繰り返すたび「ありがとうね、ありがとうね」と両手を包んでくれた。
電車を降りる瞬間も、お互いにお辞儀をしあった。
日頃の運動不足が祟って、ふくらはぎはぷるぷると小刻みに震えていた。次の日は筋肉痛になった。
でも、後悔はない。
はじめて、自分が納得する”思いやり”を知れた日。
きっと、いつでも同じ行動はできないと思う。そこまで、私はまだ強くない。
だけど、いつでも人に手を差し伸べる余力を残しておけるように、自分をまずは抱きしめて日々を過ごしたい。
あの日、満員電車で私は”思いやり”を捨てた。
これまでの”思いやり”を捨てて、はじめて”思いやり”を知れた。
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