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【日本書紀 講読】飛鳥の宮 〜宮と都市文化の黎明〜

九條です。

飛鳥は私の心の故郷。私が高校生の時に古代史を好きになった出発点でもあります。

私は小学生の頃から考古学には興味を持っていたのですが、その後の私の進む道(すなわち古代史)を決定づけたのは、飛鳥という時代との出逢いでした。

飛鳥時代の文化の中心となった飛鳥地域は、私が大学生の時(ですから、いまから35年ほど前)から何度も歩いていて(巡検もして)、とても想い出深い場所です。飛鳥は日本の歴史の故郷のひとつであり、私の心の故郷なのです。

いままで飛鳥を歩いてきて、また飛鳥の(日本の原風景とも言える)その美しい風景を想い出したりして、何となくボンヤリと心に浮かんだことを以下に記したいと思います。

飛鳥という地域
飛鳥地域の範囲については、現在の奈良県高市郡たかいちぐん明日香村あすかむらをイメージしていただければ良いかと思う。

歴史的な範囲で述べると、大まかには大和三山を結んだラインより南側の平地。もう少し細かく見ると北限は現在の藤原宮の南辺のライン、南限は祝戸いわいどの坂田寺があるあたり、東限は山田寺跡から石舞台古墳あたりを結んだライン、西限は近鉄吉野線「畝傍御陵前」駅から「壷阪山」駅を結んだラインあたりもしくはさらにその少し西のマルコ山古墳あたりまでと考えて良いように思う。

この飛鳥地域の歴史上における文化的・政治的な中心地は古来より「真神原まかみのはら」と呼ばれた、飛鳥寺南方から川原寺または橘寺の寺域の北限あたりまでの飛鳥川東岸の開けた平地である。


飛鳥という時代

飛鳥時代の時代区分論については諸説ある。その始まりについては仏教が伝来した欽明天皇戊午年(538年)[1]説、または欽明天皇十三年(552年)[2]説、が良く知られており、その他に厩戸皇子(聖徳太子)が摂政となった推古天皇元年(593年)[3]を飛鳥時代の始まりとする考え方もある。

またその終わりについても、皇極天皇四年(645年)のいわゆる乙巳の変(大化改新の契機となった事件)と孝徳天皇元年すなわち大化2(646)年のいわゆる「(大化)薄葬令」の発布[4]すなわち古墳築造への法的規制がなされた時、または持統天皇八年(694年)の藤原京遷都[5]もしくは元明天皇による和同3(710)年の平城遷都までという考え方もある。

ここでは文化史的な観点から、その始まりを欽明天皇戊午年(538年)の仏教伝来、終わりを持統天皇八年(694年)の藤原京遷都と考えたい。156年間である。


飛鳥の宮

上記仮説による飛鳥地域における飛鳥時代の宮の変遷を順を追ってごく簡単に箇条書き風に見て行きたいと思う。なお朝倉橘廣庭宮あさくらのたちばなのひろにわのみやや大津宮や難波宮などは飛鳥地域ではないため、これを除外する。

おもな飛鳥の宮の大まかな位置関係
(国土地理院地図より 九條正博 作成)

(1)欽明天皇(在位:539〜571年) 
欽明天皇は磯城島金刺宮しきしまのかなさしのみやに宮を置いた。『日本書紀』欽明天皇元年条には、

遷都倭國磯城郡磯城嶋 仍號爲磯城嶋金刺宮

とある[6]。この磯城島金刺宮は現在の奈良県桜井市金屋・外山あたりと考えられている。

(2)敏達天皇(在位:572〜585年)
敏達天皇は、はじめ百済大井宮くだらのおおいのみやに宮を置いたが、敏達天皇4年(575年)に訳語田幸玉宮おさだのさきたまのみやに遷っている。『日本書紀』には、

元年夏四月壬申朔甲戌 皇太子即天皇位 尊皇后曰皇太后 是月 宮于百濟大井 以物部弓削守屋大連爲大連如故 以蘇我馬子宿禰爲大臣

六月 新羅遣使進調 多益常例 併進多々羅・須奈羅・和陀・發鬼四邑之調 是歳 命卜者占海部王家地與絲井王家地  卜便襲吉 遂營宮於譯語田  是謂幸玉宮

とある[7][8]。ここの「以物部弓削守屋大連爲大連如故 以蘇我馬子宿禰爲大臣」の記述はその後の物部守屋滅亡までの我が国の在り方を決める非常に重要な記述である。

百済大井宮は現在の奈良県桜井市吉備あたり、訳語田幸玉宮は奈良県桜井市戒重にある他田坐天照御魂おさだにますあまてるみたま神社あたりと考えられている。

(3)用明天皇(在位:585〜587年)
用明天皇は、磐余池辺雙槻宮いわれのいけべのなみつきのみやに宮を置いた。この宮は『日本書紀』によればかつて履中天皇(5世紀前半頃か?)が造ったとされる磐余池いわれのいけの畔に営まれたと記してある。『日本書紀』には、

九月甲寅朔戊午 天皇即天皇位 宮於磐余 名曰池邊雙槻宮

とある[9]。この磐余池辺雙槻宮は、現在の奈良県橿原市東池尻町が有力視されている。

(4)崇峻天皇(在位:587〜592年)
崇峻天皇は、倉梯宮くらはしのみや倉柴垣宮くらはしのしばかきのみや)に宮を構えた。『日本書紀』には、

以蘇我馬子宿禰爲大臣如故 卿大夫之位亦如故 是月 宮於倉梯

とある[10]。この倉梯宮は、現在の奈良県桜井市倉橋にあったと考えられている。

(5)推古天皇(在位:592〜628年)
推古天皇は我が国最初の女帝(男系の女性天皇)である。彼女は最初豊浦宮とゆらのみやを営んだ[11]後に小墾田宮おはりだのみやに遷った。豊浦宮において厩戸皇子(聖徳太子)が摂政となり、小墾田宮においては冠位十二階や十七条憲法を発布したとされる。『日本書紀』には、

嗣位既空 群臣請渟中倉太珠敷天皇之皇后額田部皇女 以將令踐祚 皇后辭讓之 百寮上表勸進至于三 乃從之 因以奉天皇璽印 冬十二月壬申朔己卯 皇后即天皇位於豐浦宮

元年春正月壬寅朔丙辰 以佛舍利置于法興寺刹柱礎中 丁巳建刹柱 夏四月庚午朔己卯 立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子

冬十月己巳朔壬申 遷于小墾田宮

とある[12][13]。豊浦宮は奈良県高市郡明日香村豊浦に、小墾田宮は同いかずち周辺にあったと考えられている。後の淳仁・称徳朝の小冶田宮おはりだのみやとは異なる宮である。

(6)舒明天皇(在位:629〜641年)
舒明天皇は、飛鳥岡本宮に宮を営んだ。『日本書紀』には、

冬十月壬辰朔癸卯 天皇遷於飛鳥岡傍 是謂岡本宮

とある[14]。この飛鳥岡本宮は舒明天皇8年に火事になり、天皇は田中宮へ遷っている。『日本書紀』には、

六月 災岡本宮 天皇遷居田中宮

とある[15]。その後百済大寺と百済宮を造営し厩坂宮うまやさかのみやへ滞在した後に百済宮へ遷った。舒明天皇はこの百済宮で崩御された。このことについて『日本書紀』は、

十三年冬十月己丑朔丁酉 天皇崩于百濟宮 丙 殯於宮北 是謂百濟大殯 是時 東宮開別皇子 年十六而誄之

と記している[16]。舒明天皇の飛鳥岡本宮は現在の奈良県高市郡明日香村岡、厩坂宮は奈良県橿原市石川町、百済宮は奈良県桜井市吉備にあったとされる。

(7)皇極天皇(在位:642〜645年)
皇極天皇は推古天皇に次ぐ我が国で2番目の女帝である。彼女は飛鳥板蓋宮あすかいたぶきのみやに宮を構えた。『日本書紀』は皇極天皇二年の条で、

丁未 自權宮移幸飛鳥板蓋新宮

と記している[17]。この飛鳥板蓋宮は、天皇の宮としてはじめて屋根に板を用いたのでこの名称となったと伝えられている。飛鳥板蓋宮は現在の奈良県高市郡明日香村岡に史跡公園として整備されている。かの乙巳の変(大化改新)の舞台となったのは、この飛鳥板蓋宮である[18]。

(8)孝徳天皇(在位:645〜654年)
皇極天皇は乙巳の変のショックで退位された。その後を嗣いだのが孝徳天皇である。孝徳天皇は新たに遷宮することなく飛鳥板蓋宮にとどまり、白雉5(654)年十月に崩御された[19]。

(9)斉明天皇(在位:655〜661年)
皇極天皇が再び即位(重祚ちょうそ)して斉明天皇となった。彼女は飛鳥板蓋宮にて即位した。推古天皇の故地小墾田おはりだに宮を造ろうとしたが中止している。『日本書紀』には、

元年春正月壬申朔甲戌  皇祖母尊  即天皇位於飛鳥板蓋宮  冬十月丁酉朔己酉  於小墾田造起宮闕擬將瓦覆 又於深山廣谷擬造宮殿之材  朽爛者多遂止弗作

とある[20]。しかしその年に板蓋宮が火災に遭ったので飛鳥川原宮に遷っている。『日本書紀』には、

是冬 災飛鳥板蓋宮 故遷居飛鳥川原宮

と記されている[21]。そして翌年には後飛鳥岡本宮のちのあすかのおかもとのみやを営んでいる。『日本書紀』には、

是歲 於飛鳥岡本更定宮地 時 高麗・百濟・新羅並遣使進調 爲張紺幕於此宮地而饗焉 遂起宮室 天皇乃遷 號曰後飛鳥岡本宮

とある[22]。

この時期、斉明天皇は大規模な土木工事を繰り返した。たとえば天香久山の西から石上まで大溝を掘って舟で石を運ばせた。多武峰とうのみね(田身山)にも両槻宮ふたつきのみやを営んでいる。この斉明天皇による相次ぐ遷宮や土木工事について、とくに上記の溝については後世に「狂心渠たぶれごころのみぞ」と呼ばれた。

そして後飛鳥岡本宮もその年のうちに火災に遭っている。

この相次ぐ宮の火災や繰り返された意味不明な大規模土木工事は異様である。尋常ではない。斉明天皇の身辺に何が起こっていたのであろうか。『日本書紀』はこれら一連の出来事について、

九月 遣高麗大使膳臣葉積・副使坂合部連磐鍬・大判官犬上君白麻呂・中判官河內書首闕名 小判官大藏衣縫造麻呂 是歲 飛鳥岡本更定宮地 時 高麗・百濟・新羅並遣使進調 爲張紺幕於此宮地而饗焉 遂起宮室 天皇乃遷 號曰後飛鳥岡本宮 於田身嶺 冠以周垣 復於嶺上兩槻樹邊起觀 號爲兩槻宮 亦曰天宮 時好興事 廼使水工穿渠自香山西至石上山 以舟二百隻載石上山石順流控引 於宮東山累石爲垣 時人謗曰 狂心渠 損費功夫三萬餘矣 費損造垣功夫七萬餘矣 宮材爛矣  山椒埋矣 又謗曰 作石山丘 隨作自破 又作吉野宮 西海使佐伯連 小山下難波吉士國勝等 自百濟還 獻鸚鵡一隻 災岡本宮

と記している[23]。その後彼女は筑紫国(福岡県)朝倉郡の朝倉橘廣庭宮あさくらのたちばなのひろにわのみやに遷っている。これは白村江の戦によるものである。彼女はこの朝倉橘廣庭宮で崩御している。

(10)天智天皇(在位:668〜672年)
天智天皇は朝倉橘廣庭宮から筑紫国長津宮へ遷り近江国大津宮へ遷都した。

(11)天武天皇(在位:673〜686年)
天武天皇は天智天皇崩御後に壬申の乱で勝利し、蘇我馬子の邸宅跡である嶋宮しまのみやで即位した。その後岡本宮へ遷り、岡本宮の南に飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみやを営んで遷る。『日本書紀』には、

九月己丑朔丙申 車駕還宿伊勢桑名 丁酉宿鈴鹿 戊戌宿阿閉 己亥宿名張 庚子詣于倭京而御嶋宮 癸卯 自嶋宮移岡本宮 是歲 營宮室於岡本宮南 卽冬 遷以居焉 是謂飛鳥淨御原宮

とある[24]。この飛鳥浄御原宮は皇極天皇の飛鳥板蓋宮と同じ場所であり、遺構としては飛鳥板蓋宮の上層にあたる。上述のように奈良県高市郡明日香村岡に伝飛鳥板蓋宮址(飛鳥宮跡)史跡公園として整備されている。

(12)持統天皇(在位:690〜697年)
持統天皇は天武天皇の后であり天武天皇崩御後に飛鳥浄御原宮で即位した。史上3人目の女帝である。その後持統天皇八年(694年)に藤原京(藤原宮)へ遷った。この藤原京(藤原宮)はすでに天武天皇の時代から造営に着手していたと考えられている。『日本書紀』には、

十二月庚戌朔乙卯 遷居藤原宮

とある[25]。


まとめ
以上、飛鳥時代のはじまりである欽明朝から藤原遷都までをざっとみてきた。この156年の間に飛鳥地域内で宮は、

磯城島金刺宮しきしまのかなさしのみや百済大井宮くだらのおおいのみや訳語田幸玉宮おさだのさきたまのみや磐余池辺雙槻宮いわれのいけべのなみつきのみや倉梯柴垣宮くらはしのしばかきのみや豊浦宮とゆらのみや小墾田宮おはりだのみや→飛鳥岡本宮→田中宮→厩坂宮うまやさかのみや→百済宮→飛鳥板蓋宮あすかいたぶきのみや→飛鳥川原宮→後飛鳥岡本宮のちのあすかのおかもとのみや両槻宮ふたつきのみや嶋宮しまのみや→岡本宮→飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみや→藤原宮

と、12代の天皇にわたって19回も遷っている。これは藤原宮よりも前(とくに飛鳥板蓋宮以前)には、新たに天皇が即位する毎に新しい宮を営んでそこへ遷るという文化があったからである。

しかしたった156年の間にこれだけ目まぐるしく天皇が代わり宮が遷っても、そのエリアはだいたい飛鳥地域(大和盆地南部)という狭い範囲に限られていたのである。であるから官人たちは飛鳥に居を構えていて、いくら天皇が代わりその度に宮が移動しても「通勤」できたのであろうと考えられる。

藤原京は我が国で最初の本格的な「都」であるが、これも当時の人たちの意識からすれば従前の飛鳥の宮の延長線上であったと考えられる。藤原京の都市機能としての実態はまだまだ解明されていない点が多いが、それまでにない大規模な都であったがゆえにその周辺に移住してきた人たちも居たかもしれない。しかし地勢的・歴史的経緯を見ればそれはあくまで飛鳥の範囲内であり、飛鳥の故京からでも通える距離でもある。

これに対して平城京は比較にならない程の経済規模を持った「都市」であったといえる。飛鳥から通える距離ではない。平城京出土木簡などをみても、日本全国から人が集められて活発な経済活動が行われていたことが解る。

平城京・藤原京と飛鳥の位置関係概念図
(国土地理院地図より 九條正博 作成)

藤原京についてはまだ解らないことが多いが、平城京は我が国の歴史上で初めて「都市文化」を持った街であったと、いまのところは考えて良いように思う。

【註】
[1]『上宮聖徳法王帝説』
[2]『日本書紀』欽明天皇十三年冬十月条
(冬十月 百濟聖明王更名聖王 遣西部内氏達率怒内斯致契等 獻釋迦佛金銅像一内・幡蓋若干・經論若干卷)
[3]『日本書紀』推古天皇元年春正月条
[4]『日本書紀』孝徳天皇大化元年三月癸亥朔甲子条
[5]『日本書紀』持統天皇八年十二月条
(十二月庚戌朔乙卯 遷居藤原宮)
[6]『日本書紀』欽明天皇元年二月条
[7]『日本書紀』敏達天皇元年夏四月壬申朔甲戌条
[8]『日本書紀』敏達天皇四年六月条
[9]『日本書紀』用明天皇即位前記九月甲寅朔戊午条
[10]『日本書紀』崇峻天皇元年八月癸卯朔甲辰条
[11]『日本書紀』推古天皇即位前記
[12]『日本書紀』推古天皇元年春正月壬寅朔丙辰条
[13]『日本書紀』推古天皇十一年冬十月己巳朔壬申条
[14]『日本書紀』舒明天皇二年秋八月癸巳朔丁酉条
[15]『日本書紀』舒明天皇八年六月条
[16]『日本書紀』舒明天皇十三年冬十月己丑朔丁酉条
[17]『日本書紀』皇極天皇二年夏四月丁未条
[18]『日本書紀』皇極天皇四年六月丁酉朔甲辰条
[19]『日本書紀』白雉五年冬十月条
[20]『日本書紀』斉明天皇元年春正月壬申朔甲戌条
[21]『日本書紀』斉明天皇元年条(冬十月以降)
[22]『日本書紀』斉明天皇二年秋九月条
[23][22]に同じ
[24]『日本書紀』天武天皇元年条
[25]『日本書紀』持統天皇八年十二月庚戌朔乙卯条


2023年2月12日
(2023年6月26日 冒頭部分のみ改訂)
九條正博

©2022-2023 九條正博(Masahiro Kujoh)
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