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人という存在 〜私の理性主義〜

九條です。

人という生き物は、どういった性質の生き物なのでしょうか?

確かに、歴史を学べばある程度、人という生き物の行動の傾向性は「ある種の経験則や統計学的な感覚をもって」なんとなく朧げながらもその輪郭線のようなものの片鱗を掴む事ができるのかも知れません。

けれども本当に「人とはどういった存在なのか」を知り、その事を実感するためには、やはり実際に現実の社会の中において多くの生身の人間と付き合い、長い時間をかけて相手という人を知って行く事以外、他に方法はないだろうと思います。

社会という複雑に絡み合った人間関係の中において、自分自身が喜び、悲しみ、怒り、恐怖、絶望…などの様々な経験を実体験として積み重ねて行かなければ、人の人たる所以である理性は自身の中に育ちませんし、理性が育たなければ人は自分の感情をコントロールする事も、相手の心を理解する事もできません。

理性とは「人間の人間による人間らしい心」そのものです。

いま巷に溢れる匿名による誹謗中傷、陰での悪口などは、それは理性が働いていない状態であり、そこに人間らしさは微塵にもなく、そのような理性の欠如した人は人にあらず、出来損ないの人間だと言っても過言ではないと思います。人として最も恥ずべき姿だと私は思います。

最近はインターネット、とりわけSNSの爆発的な普及によって、生身の人間とはうまく付き合えない人、ですから「人とはどんな存在なのか」「人の心の動きとはどのようなものなのか」という事が理解できない、そういった理性が働かない(いわば人として出来損なっている)社会性の欠如した人間が爆発的に増えてきているように感じます。

翻って、人類の歴史始まって以来、人は「個」で生きることはできませんでした。

人間は社会性を持った生き物であり、社会を創りそのなかで(集団の中で)しか生きていくことができなかったのです。

その最小の社会的集団が「家族」であり、最大の社会的集団が「国家」であろうと思います。

いま、人が理性を失いつつある中で、家族も国家も崩壊の危機に直面していると感じます。

現代では家に引きこもってインターネットを閲覧したり、メールをしたり、SNSで自分の思いを発信したりが簡単にできてしまう便利な社会となりましたが、実際に現実の世界で生身の人間と向き合って話し、そうすることによって相手との心理的距離感、相手の表情、言葉の強弱、息遣い、その場の空気感、などから相手の心の動きを知りその状態を慮る… 。

そういった多くの生身の人間との現実の社会における付き合いにおいて、その場その場の状況に応じて臨機応変に対応し、それぞれの人を思いやり、それぞれの人と末永くうまく付き合って行く…これはほんらい、人として当たり前の事ですね。

しかし、そのような当たり前の事ができなくなってしまっている人が増えてきてることは事実であり、もはやそういう人間は、理性が欠落し社会性の欠如した出来損ないの人間ですので、人として終わってしまっているのではないかと思ったりします。

おやすみなさい。(-_-)zzz


©2024 九條正博(Masahiro Kujoh)
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