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古代の神ヤライについての随想

九條です。

私は普段は『日本書紀』をはじめとした、いわゆる「日本の正史」と言われる「六国史」を根本資料として日本の古代史などについて考えていますので『古事記』や『万葉集』については本格的に研究した事はないのですが…。

それに、どちらかと言えば『古事記』の研究は歴史学と言うよりも神道学や神話学の研究分野で『万葉集』は国文学の研究分野だという雰囲気が現在の日本にはありますので、私は『古事記』や『万葉集』に対しては「研究」というよりも、読んで(鑑賞して)楽しむという程度のレベルです。

しかし私は昔から(私が大学生の頃、すなわち今から35年以上も前から)『古事記』で少し気になっている部分がいくつかあります。

その中でもとりわけ『古事記』の山場のひとつ。須佐之男命が神々の国の高天原で乱暴狼藉を働いて、そのせいで天照大神が天岩屋の中に隠れてしまい、その後天照大神が天岩屋から引っ張り出されてこの世に光が戻ったあとに神々が協議して須佐之男命を高天原から追放したという一連の条について。

【原文】
於是天照大御神以爲怪細開天石屋戸而內告者因吾隱坐而以爲天原自闇亦葦原中國皆闇矣何由以天宇受賣者爲樂亦八百萬神諸咲爾天宇受賣白言益汝命而貴神坐故歡喜咲樂如此言之間天兒屋命布刀玉命指出其鏡示奉天照大御神之時天照大御神逾思奇而稍自戸出而臨坐之時其所隱立之天手力男神取其御手引出卽布刀玉命以尻久米(此二字以音)繩控度其御後方白言從此以內不得還入故天照大御神出坐之時高天原及葦原中國自得照明

於是八百萬神共議而於速須佐之男命負千位置戸亦切鬚及手足爪令拔而神夜良比夜良比岐

【読み下し】
これにおいて天照大御神、怪しと思ほし、細く天石屋の戸を開きて、しかるに内にるはれ隠れにいますによりて、しかるに高天原みづからくらく、また葦原中国あしはらのなかつくにみなくらしと思いきや、何ゆえに天宇受売あめのうづめは楽しきをなし、また八百万の神はわらふや。これに天宇受売あめのうづめまをして言はく、みことして而るにたっとき神にますゆえ、歓喜よろこわらひ楽し。の如く言ひしの間、天児屋命あめのこやねのみこと布刀玉命ふとだまのみこと、其の鏡を指し出し、天照大御神に示し奉るの時、天照大御神いよいよ奇しと思ほしめして、而るにやや戸より出て而るに臨みまししの時、其の隠れ立つ所の天手力男神あめのたぢからをのかみ、其の御手を取り引き出て即ち布刀玉命ふとたまのみこと尻久米しりくめ(此の二字こへを以てす)。縄を以ちて其の御後方みしりへに控きわたまをして言はく、此従ここより内以て還り入り得ず。れ天照大御神出でまししの時、高天原葦原中国あしはらのなかつくにおのづから照り明り。

これに於いて八百万の神共にはかり而るに速須佐之男命はやすさのをのみことに於て千位置戸ちくらおきどを負ひし亦た鬚を切り及びて手足の爪抜かしめ、而るに神夜良比かむやらひ夜良比岐やらひき

【意味】
こうした様子に天照大神は不思議に思って少し天岩屋の戸を開いてその内側から言われた。

「私が天岩屋の中に隠れたので、神々の国である高天原は暗くなり、葦原中つ国の全ても暗くなったはずですが、 なぜ天宇受売は楽しそうにしているのか、なぜ八百万神は皆喜び笑って楽しそうなのですか?」

それに答えて天宇受売が申し上げるには、

「天照大神様よりも、もっと尊い神がいらっしゃいましたので、みな喜んで笑っているのです」

こうして天照大神と天宇受売が話している時に天児屋命と布刀玉命は八咫鏡に天照大神ご自身の姿を映し出して天照大神に見せました。

天照大神はますます不思議に思って、わずかに戸から身を乗り出して鏡を覗き見られた時、その横に隠れて立っていた天手力男神が天照大神の手を握って彼女を天岩屋の中から外へ引っ張り出しました。

そして、すかさず布刀玉命が注連縄を天照大神の後ろ側に張って、

「ここより内側に戻り入ってはなりませぬ」

と天照大神に申し上げました。

このようにして天照大神は再び天岩屋から外の世界へ戻っておいでになったので、高天原と葦原中つ国は再び天照大神の光に照らされて明るくなりました。

こうした事があったので、八百万神が会議をして、その結果、速須佐之男命に千位置戸ちくらおきどの刑を科し、神々の国である高天原から彼を追放しました。

以上が神話ですが『古事記』は奈良時代に編纂されたわけですから、奈良時代の言葉で書かれています。

ほぼ同時期に編纂された『日本書紀』が中国大陸(唐)・朝鮮半島、とくに大陸の唐を意識してほぼ純粋な漢文で書かれているのに対して『古事記』は当時の言葉遣い(上代日本語)で書かれています。

上代日本語は独特のリズムや響きがあってたいへん魅力的で興味深いと思うのですが、その研究は国文学や国語学の分野ですので、歴史学の人間の私はここでは触れません。

さて、上記の条。色々と興味深い事がありますね。

まず、須佐之男命の乱暴狼藉は具体的に何を現していたのか?

次に天照大神が天岩屋の中へ隠れたのは、一般には「日食」という自然現象(天文現象)を現したものだと言われていますが、そうであるならば須佐之男命の乱暴狼藉と日食とを古代人はどのように関連付けて考えていたのか?

そして最後の一文、

神夜良比かむやらひ夜良比岐やらひき

これは、一般に神逐(かんやらい)すなわち神を追放する事だと解釈されていますが、そうであるならば追放された須佐之男命は具体的に何を象徴しているのか?

つまり須佐之男命が象徴する「何か」と、日食と、その日食が終わってから(穢を祓うために)「何か」を追放した事が、一連の儀式のように記述されていると読むこともできると思います。

すでに持統天皇の時代(白鳳時代)には暦博士や天文博士が置かれて日食の予報がなされていましたし、奈良時代になると陰陽寮が置かれました。

ですから、上記の『古事記』の記述から推測して古代日本において日食の予想を立て、日食が始まってからそれが終わって光が復活した後に、日食の穢を祓うための何らかの儀式があったと解釈することも可能かと思います。

私は小さい頃から、祖母や母には「日食や月食を(肉眼で)見てはいけない。不吉なことが起こるから」と言われて参りました。ですから私は今でも日食や月食は見ません。

そして奈良時代よりも後の平安時代以降の話ですが、やはり日食や月食の時には天皇や公卿たちは宮や邸宅の戸を締め切り、建物の奥深くの部屋に閉じこもって絶対に外の空気には触れないようにして、そうして日食や月食の穢れに触れないようにしていたと伝わっています。

神話を単なる神話として(すなわち古代人の創作として)片付ける事は簡単ですが、そうではなくて、その文化的背景を探ってみると文献資料の文字だけではなかなか見えてこない事が見えてきそうで、面白いですね。^_^


【参考資料】
◎井上光貞『律令』(養老令)岩波書店 1994年
◎国史大系版『古事記・先代旧事本紀・神道五部書』吉川弘文館 1998年
◎東京国立博物館古典籍叢刊編集委員会『九条家本 延喜式』思文閣 2011年


©2024 九條正博(Masahiro Kujoh)
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