小説「歩み」 第2章 第2話 「小学校」


 幼稚園年中で自分の名前を漢字で書けるようになっていたし、年長でかけ算九九の二の段まで覚えていたので、平仮名から習う小学校の授業は退屈だった。
 隣の席の男の子が「この平仮名なんて読むの?」と訊いできたので目を向けると、その男の子の名前に使われている平仮名だったので心底驚いた。自分の名前の平仮名すら読めずにどうやって6年間生きてきたのだろうか、と。

 小学校に入ってから、水曜日を好きになり、木曜日を忌み嫌うようになった。
 水曜日の一時間目の算数は楽しかったし、給食近くの音楽の授業もまあまあ楽しかった(授業で扱う歌の歌詞と旋律が幼稚園年少レベルだなと感じていたので「まあまあ」としている)。
 木曜日は母の機嫌が悪くなる確率が高かったので「木曜日」というだけで怖かった。

 小学校に上がってから、母の「字を丁寧に書きなさい」という拘りはどんどん酷くなっていった。
 小学三年生の頃、自習の時間に漢字の書き取りの課題が出された。自習の時間に先生から定められたページ分の漢字を書き取り、時間になったら教壇にノートを提出すること、という内容だった。母が納得する字を書いていては書き取りが間に合わないので、いつもよりかは雑に早く書いた。
 後日、そのノートを見た母が激高した。母の言い分は、丁寧な字を書いて、間に合わない分はそれはそれで仕方ないでしょう、というものだった。この人は話が通じないな、異常者だな、と子ども心に思い、手に職をつけて成人したらすぐに一人暮らしをしようと決意した。
 十八歳になったらすぐに家を出たかったが、九歳ながらに、母のように高卒で就職するのは無理だと感じていたため、高校卒業後は専門学校に行き、そのまま就職して家を出ようと計画を立てた。

   相変わらず母は私を殴りに殴った後、「りーちゃんごめんね。愛してるの。」と泣きながら謝ってきた。仕返しとしてママを殴って、という申し出を一度断ったが、「やられたらやり返す」は母の口癖だったので考えを改め、少し時間が経ってから、やっぱり殴り返させてよ、と言った。母は「は?」という顔をしたが、その顔が気に食わなかったので容赦なく肘鉄を食らわせた。

 時間は飛んで。
 小学五年生になった途端に男子も女子もみんな大人びだして驚いた。四年生までは男女問わず取っ組み合いをしていたのに。
 五年生になると取っ組み合いの喧嘩は無くなったし、女子は着音にこだわり出したり、WALKMANを持っていることが当たり前になったり、なんかもうとにかく着いていけなかった。私の家はバラエティ番組しか見せてもらえなかったので、音楽番組やドラマに出てくるイケメン俳優について話す女子の輪には入れなかった。携帯電話も持たせて貰えなかったのでメール文化の輪にも入れなかった。
 女子の輪に入るきっかけが何も無かった。
 クラスに馴染めないのは両親のせいだ、とひっそりと両親をひたすら恨んだ。
 視力がとても悪く常時眼鏡着用必須だったのに、見た目を気にして裸眼で過ごしていたため、人と目が合っているのか分からず周りの視線が怖くなり、誰とも目が合わないよう常に下を向いて過ごした。
 小学五年生の一年間は、ほぼぼっちで過ごした。

 大人びだした女子たちは、「真面目に取り組むことがダサい」といった空気を全力で纏っていた。勉強も行事もだるそうに取り組む。別に真面目に取り組むことがダサいとは思わなかったが、これ以上クラスで浮くことが怖かったので、別にこんな行事面白くないですよ、みたいな空気を纏うよう意識していた。

 所謂「反抗期」の始まりだ。母から強要されていた授業の予習と復習も疎かになり、テストの成績が少し下がった。二学期の通信簿では「意欲・関心・態度」の評価がBになった。母は激高し、私は母から後頭部を押さえつけられ、机の上に置かれたクリスマスケーキに顔面ダイブした。
 小学五年生の頃を思い出そうとすると、母に屋上(四階)に連れていかれ、ここから飛び降りて死になさい、大丈夫、地面に着く頃には意識が飛んで痛くないから、と自死を強要されたことが思い浮かぶ。

 書いていなかったが、幼稚園の頃からモダンバレエを習っていた。自分で言うのもなんだがセンスがあったらしく、おまけに振り覚えもそこそこ早かったので「デキる部類」だった。
 しかし、小学校高学年にもなるとコンクールで「表現力」を求められる。感受性が乏しく人生経験も浅い私は表現力の部分で壁にぶち当たった。母は習い事に関しては勉強の妨げにならない程度にやりなさいというスタンスで口うるさく言ってくることはあまり無かったが、私のあまりの表現力の無さに痺れを切らしたのか、形容しがたい怖いオーラを纏いながら私の首に包丁を突き立ててきた。
 「母から包丁を突きつけられた」という事実は把握しているが、実際に突きつけられてどう感じたかは思い出せない。

 小学校六年生になると、大人びた女子のグループに入ることになった。
 しかし馴染めきれず、クラスで浮いていた外国籍の女子たちともつるんでいた。

 母との関係はどんどん悪化していった。一度着火するともう手が付けられない。私が赤ちゃんの時に買ってもらっていた四十万円する図鑑セットを読んでいないことや積み木セットで遊んでいないこと、その他諸々の母が一方的に買い与えたものや厚意を母の望む形で私が叶えなかったことを思いつくままに数時間にわたり責め立てられた。酷い時は三日間くらい休みなく責め立てられ続けた。

 手をつねるなどの自傷行為はしていたが、自殺は考えていなかった。
 その代わり、大人になったら母に復習する妄想ばかりしていた。

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