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【読書案内】8月のおすすめ本

インターネット登場によって、情報発信は誰でも行えるようになった。でも、今のSNSを見ていると、どうも私たちが理想としていた状況からかけ離れている。情報発信の民主化が進んだ一方で、「聞き手」は減ったんじゃないだろうか。

今月のテーマは「聞く」。
私たちの生活に「聞く」ことは取り戻せるのか。個人と社会の間、中二階で考えるための本を4冊選んでみました。



東畑開人『聞く技術、聞いてもらう技術』(筑摩書房)

いろんな本を出していて、臨床心理士の中でいま最もホットな人の一人が東畑さんじゃないだろうか。『居るのはつらいよ』も十分に面白いのだけれど、今回は「聞く」がテーマなのでこの新書をチョイス。

ところで、「話をきく」には「聞く」と「聴く」の二つの漢字をあてることができる。
二つを眺めてみて、直感的に「聴く」の方が、姿勢を正してちゃんとやらないといけない事のように感じる。難しくて、専門的なイメージがある。カウンセリングのイメージも「聴く」の方だ。

けれど、今回のテーマに選んだのは「聞く」。なぜか。
実は、東畑さんによると「聞く」方が難しいのだ。その理由は非常にシンプルでクリティカル。
相手は言っていることを真に受けてほしいのであって、その裏を読んで欲しいわけではない。心の奥底に触れるよりも、懸命に訴えていることをそのまま受け止めてほしいのだ。
しかし、これが難しい。相手が怒っている時、その怒りをあなたは正面から受け止められるだろうか? 僕はきっと目を合わせることもできない。僕にこんなことを言ってくるのはきっと何かあるに違いない、と分析モードに入ってしまう方が、気持ち的に楽である。

私たちは心の余裕がないと、相手の話を聞くことはできない。心の余裕を持つには、自分の話を誰かに聞いてもらう必要がある。
これが、タイトルが『聞く技術 聞いてもらう技術』である理由である。
技術については、ぜひ読んでみて欲しい。


中森弘樹『「死にたい」とつぶやく』(慶應義塾大学出版会)

「死にたい」人と、彼ら彼女らを取り巻く親密圏の相互作用を分析する社会学の本である。
「自殺」が社会学のテーマになった始まりは、エミール・デュルケムの『自殺論(1897年)』だ。
従来、自殺は個人の問題と見なされていた。デュルケムは様々な統計を用いて自殺が発生する頻度の高いコミュニティ、低いコミュニティを明らかにし、自殺を社会の問題として位置付けた。
だから今でも社会学は自殺という”現象”を研究している。

さて、このnoteのテーマである「聞く」について考えてみよう。私たちは、親密な人からの「死にたい」という告白を受け止められるだろうか?
中森さんは、「死にたい」という言葉が、コミュニケーションを脱臼させる機能を持つと指摘する。

私たちは暗黙のうちに「生きたい」を前提としてコミュニケーションを行っている。
例えば、お店に入ったお客さんに店員さんが「いらっしゃいませ」と声をかけるのは、まさかこの人が店内で死のうとするとは思っていないからだ。
このあとは商品を手に取ってレジに持ってくるに違いないと無意識のうちに予測している。
事前に知っていたら、入店時にかける言葉は違うものになっているはずだ。

「死にたい」と告白されたとき、私たちはこの後何が起こるのか予測できなくなり、ひどく動揺する。
そして「死にたい」気持ちを抱えた人側も、動揺されると知っている。だから言えない。一方でSNSでは呟いても、動揺されない、否定されない。
中森さんは、そこにケアの側面があるのではないかという。


河合隼雄『河合隼雄のカウンセリング教室』(創元社)

河合隼雄は、日本の臨床心理におけるゴッド・ファーザーだと個人的に思っている。
メディアの出演、出版も多く、彼が社会に与えてきた影響は計り知れない。そんな河合さんなら、「死にたい」と言われたとき、どんな返事をするのだろうか。

本書の第2章では、「理解をあせらない」ことが主張されている。私たちは生きていて、何に対しても「なぜ」と理由を求めたがる。なぜ彼は死にたいと思っているのか、なぜ私はいつもこうなのか、なぜ、なぜ……。
相手を分かろうとする事と、相手を受け入れる事は異なる。
「死にたい」という人を理解しようとする事と、「死にたい」という言葉を文字通りに聞いて受け止める事は違う事なのだ。
河合さん曰く、「死にたい」という告白に周囲が翻弄される中、まぁとりあえず会って話を聞こうや、とやれるのがカウンセラーらしい。

ここからの傾聴テクニックは、正直河合さんだから出来るんだろうと思うけれど、とにかく「聞く」ことに徹しているのがよく分かる。
心の深いところに降りていくのは、あくまで相談に来た当事者がやることであり、カウンセラーの仕事はそれに付き合うことだ。
土足で心に踏み込まないし、誰だって真意を探られていると感じたら気持ちが悪いだろう。僕だったらむしろ心を閉ざしてしまう。

本書は河合さんの講演をそのまま文字化しているため、ものすごく読みやすい。普段本は読まないとか、読書は苦手という人にもおすすめだ。


クリストファー・シルヴェスター『インタヴューズ1 マルクスからヒトラーまで』(文藝春秋)

オマケの1冊。というのも、僕の手元にあるのは1998年に刊行された初版で、古本屋で手に入れたものだ。もう書店で手に入れることが難しいと思う。
と思っていたら、どうやら文藝春秋から3冊のシリーズになって文庫版が出ているらしい。

本書はタイトル通り、マルクス、ヒトラー、フロイト、マリリン・モンローといった近現代史の人物たちのインタビュー集である。
序文では編者のシルヴェスターによる「インタビュー」という手法の解説、その功罪が鋭く分析されている。

インタビューという形式が成立するには、いくつかの要素が必要で、それらは近代社会になって整備されていったと言える。
まずは「読者」の出現である。大衆が文字を読めなければ、インタビュー記事は読まれない。教育の普及は不可欠な要素であった。
そして著名人に話を聞くことで生計を立てる職業記者と、彼らが表現を発表するマスメディア(当時は新聞)がなくてはならない。
インタビューの形式は手軽で、著名人に原稿を書いてもらうよりも安くメディアに載せることができるため、商業的にも理にかなっていた。
その一方で、有名人礼賛主義は彼らの私生活をもっと知りたい読者の欲望と絡み合い、アメリカでは後世に「イエロージャーナリズム」と呼ばれるゴシップ全盛の時代へと結びついていく。

さて、インタビュアーはインタビュー相手をくまなく映し出す”鏡”なのだろうか。
それとも、オモロイ記事を書くためなら多少の捏造も厭わずディレクションする”作家”なのだろうか。
そしてまた、インタビュー相手が真実を語るとも限らない。
インタビューは告白とは異なる。聞き手と語り手、双方にとってインタビューはやはり「表現」なのである。


文:メザニン広報室


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