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さまざまな笑いの論点

 意思疎通の際に笑いを用いることが多々ある。ユーモアのことではない。笑って反応してやることを言っている。
 会話の最中に笑ってその場をとりつくろう、あるいは場を和ませる。笑いが持つ効果は凄まじく、言葉など足元にも及ばない。
 笑いには積極的なものと消極的なものがある。積極的な笑いとは、相手の言動、あるいは周囲の変動、あるいは自分を含めた環境の変化に対して、くすぐられるものがあり不意にこぼれる、あるいは吹き出すものであり、もしくは相手の言動、あるいは周囲の変動、あるいは自分を含めた環境の変化に対して、プラスに評価する意味を込めて笑ってやることを指す。とにかく、積極的な笑いは、自然な笑いだけではないけれども、笑いたいという欲求に順じて笑っている。そのことを指す。
 一方、否定的な笑いはというと、笑うしかないといった場合を言う。例えば、相手が下らない、つまらない、聞くに堪えない話をしている時、もはや反応するのでさえ苦痛である場合は笑うしかない。否定的な笑いは、言葉を使わない点においてかなり強力な道具だ。相手に本音を知られたくない時、嘘の言葉で取り繕うことはできるが、しんどい。自分に嘘をつくことになるばかりか、相手よりも劣位にいることがあからさまになってしまう。笑いはただ相手の誤解を誘う。そこに詐欺師めいた快楽を感じることができる。

 笑い方が多種多様なのもおもしろい。一個人においても、さまざまな笑いを見てとれる。吹きだす、手を叩く、目頭を押さえる、腹を抱える、しゃがみむ、よろめく、さらには大声を出す、喉元から絞り出す、苦しそうに音を出す、我慢したようにあえて抑えめの音を出す、はっきりと笑う、微笑む、声を出さずに笑うなどなどなどなどなど。きりがない。
 あまり計算的に笑い方を選んでいるつもりはないが、何か規則があるのだろうか。あればなお、おもしろい。振り返って考えてみると、ほぼ反射的に笑っているし、反省するならば、笑い過ぎているくらいだ。あらゆる都合の悪い場面で、もしくは印象をよくしようと企む場面で、ほぼほぼ私は笑っている。できるだけ愛らしく、気に入られようと笑う。うまくできていると主観的には思う。

 これだけの笑いがあるのだから十分だと思ったことはない。ありったけの笑いが欲しい。ありったけの笑いを習得したい。なぜなら、笑い方の選択肢が多ければ多いほど、助かるからだ。相手の印象を操作できるし、逃げ道を臨機応変に作れるからだ。

 昔、といっても10年前、私は引き笑いなどしたことがなかった。だが、今は、なぜか、している。なんなら、お気に入りの笑いですらある。引き笑いとは、芸能人の明石家さんまの代名詞ともいっていい、あの特徴的な笑いだ。息を吸ってか細い声で笑う。いつの間にか習得していた。その記憶はない。まったく明石家さんまの真似事かというとそうでもない。おそらく土台はそこにあるのだろうが、もはやその笑いは私にしかできないものだ。引き笑いをして、「明石家さんまみたい」と相手に言われることはまずなく、私固有のものになっている。傾向としては、積極的な笑いに多く用いられ、かなりいい評価をした場合に使っているように思う。

 ちなみに、最近のお気に入りは、音を立てずに大爆笑しているような顔で笑う方法だ。これの起源ははっきりしていて、今から2年前に、知人Kがそういう笑い方をしていて、見ていて気持ちがいいなと思ったのがきっかけ。悪意なく、相手の言動で気に入った部分があると我がものにしたくなる性格のようで、すぐにその笑いを習得した。おそらくその笑いは、もう彼のものではなく、私のものになっている。相手に気に入られようとして使う場合が多いようである。

 これからの人生、私の笑い方がどのような変遷をたどるのか見ものだ。

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