見出し画像

サイクリングでコースを一周することの特異さ

 ロードバイクに跨って、旅をする。大学1年の時に琵琶湖を一周して、大学2年の時に四国を一周した。社会人になってからは、淡路島と小豆島を一周した。どこに行ってもアップダウンの激しい坂道が待ち構えている。上り坂を前にしては、前のめりになり、両足に力を入れ、時にはうめき声をあげながら、ペダルを漕いでいく。その苦しさと引き換えに、下り坂では、心地よい風を浴びながら、しっかりとハンドルを握って猛スピードで駆け下りていく。上り坂があれば、下り坂がある。どれだけ長い距離を進んでも、一周すれば、上りと下りの距離は等しくなる。

 9月下旬、夏の終わりを前にして、小豆島一周に挑戦した際、コースの中で最も急な坂道を全力で登りながら、「努力した分ぶん報われる」という言い回しは、サイクリングから導かれた教訓ではないかという考えに至った。島をぐるっと一周するコースは、スタートとゴールが同じ。つまり、スタート前から、頑張った分だけご褒美がある、苦しんだ分だけ快楽がある、ということが確約されている。何て素晴らしいことだろう。

 これまで散々、努力すれば夢は叶うとかいう言い回しを耳にして、励まされたこともあったが、無責任だとも感じていた。必ずしも努力が実を結ぶわけではない。苦しんだ分だけ、快楽を得られるわけでもない。
 小説やエッセイを書く。書こうとする。が、書けない。パソコンの画面に必死にくらいついて、言葉を紡いではやり直し、キーボードを打つ手が止まり、1時間たって1文字も書けない。そんなことはよくある。
 だが、サイクリングは違う。スタートからゴールまでを走り切れば、スタートと同じゴール地点に戻ってくれば、確かな手応えを感じている。疲れたし、苦しかった。だけどその分、やり切ったし、爽快感を得られた。そんな風に旅を終える。

 努力した分ぶん報われる、という言い回しが、サイクリングにおいて、自分の中で腑に落ちた。おもしろいのは、文字通り、スタートとゴールが単純で、一周すれば完結してしまう、ということだ。
 例えば、努力した分ぶん報われるの他の例として、筋トレが思い浮かぶ。筋トレした分、筋肉がつく。頑張った分だけ成果が出る。ただ、この行為には、ゴールがないように思う。筋トレはどこまでも頑張れてしまう。というか、頑張ることができる。スタートすればゴールはなく、筋肉は進化し続ける。
 だが、一方のサイクリング一周はどうだ。スタートとゴールが初めから分かっている。完結している。頑張り続けなくていい。頑張る分量が、スタートの段階から決まっている。可視化できなくても、上限があることは分かりきっている。そんなものが他にあるか。

 10月上旬、鬼が岩屋と呼ばれる、標高400メートルほどの近くの山に登った。駐車場に車を停め、道と呼べるか疑わしい、草むら、木々のうねりの中を、登山マップを頼りに歩き、頂上に着き、別のコースで下山して、駐車場に戻った。マップ上では、ぐるっと一周して歩いたことになる。
 当然だが、登山は上りよりも下りが体力を使う。滑らないように慎重に下山するためだ。慣れれば楽なのかもしれないが、登山初心者の私は、下山するのに一番体力を使った。
 同じ一周とはいえ、サイクリングのようにはいかないものだなと思った。登山では上りも下りも頑張らないといけない。上りと下りの距離は同じでもどちらかが苦でどちらかが楽というものではない。どちらも大変だ。
 ただ、2時間かけて辿り着いた頂上の景色は格別だった。鬼が岩屋、その名前の由来かどうか不明だが、頂上付近には高さ3メートル以上の岩がごろごろとあり、頂上では、梯子を使ってその岩を登らなくてはならなかった。頂上の岩の上では、霧がたつ山峰とその向こうの海が見えた。何て素晴らしい景色だろう。
 当然のことだが、サイクリングのような完結した行為における、努力と報酬の等しさを絶賛してるわけではない。努力すれば報われるということが不確かな分、努力し甲斐があるというものだ。

 ここで言いたかったのは、ただ、サイクリングで一周することの特異さであって、賛美ではない。そのように特異な行為、つまり、苦楽がスタート前から確実に等しくなることが分っていて、かつ完結する、という行為が他にあるのか気になっている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?