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高IQとか天才と自分比較の考察?経験則。

※自己否定をしている文章ではありません。

子供の頃、父親には天才だと言われていた。
学校生活時代、やはり、稀に天才だと言ってくる同級生はいた。
大人になっても、度々、天才と言う人はいた。
占い師に“先天的に、頭がいい”と言われたり。
高IQを示唆する事を言う人がいたり。

…おかげで、自分のショボさを認識しつつ、自分はなにか凄い才能があるのでは?と、根拠のない自信と。
その実態のない凄い才能とやらをいつでも探っている。
…その”天才”に見合わない能力値との矛盾を感じまくりながら……。


自分はアホの子だと思ってしまう要素が多過ぎなんだけど、人によっては違う事を思ってしまう事もあるらしい。

自分には、何が出来るんだろうか。

ここでも、ちょろんと触れたが、経験則による根拠をもう少し言及してみようかな。

才能持ちや高IQっぽい人が10代、20代で才能を見出されて、短い期間で大小何らかの結果を出していくのを尻目に。
秀才達が確実にポジションと信用を獲得していくのを尻目に。
どうも自分の成長速度や集中力は、世間で“天才”と言われている人達…あるいは高IQっぽい人達に遠く及ばない事をハッキリと認識するのには、そんなに時間が掛からなかった。

それどころか、後から始めた人に、どんどん追い抜かれて、自分のポジションは、後から入ってきた人に取られてしまう。
誰よりも努力してるのに。

不器用を絵に描いたような性質なんだろうな…と、密かに感じていた。

これは、何をやってもそうで、子供の頃はそれがのたうち回る位に悔しかったんだけど。
高3のインターハイ予選で負けた事で、本当の意味で自覚した。

中学生から弓道をやっていて。
インターハイに毎年行くような強豪校で、県内で1番結果を出してる先生の元で、青春の全てを懸けて弓道をやってきたけれど。
地区大会の団体戦3位と1番小さな市民大会5位が自分の実力なのか…。

県総体の時は、個人戦も団体戦も、大事な所で的を射抜く事が出来なかった。
国体選考も、後から始めた後輩が選ばれて、私は一度も縁をいただいた事はなく。
的中率も、1年間弓道から離れていた同学年に一瞬で抜かれてしまった。
私の先天的な運動神経は決して悪くはないのに、だ。

当時は“悔しい”気持ちはあったが、団体戦で勝つ事が目的だった為、そこに劣等感を感じるのはアホらしいと思って、そこら辺の切り替えは早かったです。
チーム内でのバチバチのポジション争いは、当時から苦手だったので、自分は試合にさえ出れれば立順はどこでも良く、監督が最適解とするポジションに従うことにしていました。
当時は、劣等感との同居は常にあったのも事実だけど、それよりも”今いるメンバーで”勝ちたいと言う気持ちの方が遥かに勝っていた。
チームメイトと自分の立場の手前、劣等感な態度は微塵も出さなかったけどね。

高校のインターハイ予選で負けてしまったのを最後に、私は人と競争して生きていく事を手放した。

学校の勉強は……極限までサボっていたので、ちゃんとやれば、どうだったのかは書けないが。

少なくとも、私がイメージしている“頭がいい”や“高IQ”な人達とは、どうも性質が違った。
思考回路もそうだが、顕著なのは口から出てくる単語と、その組み立て方だ。

まず、頭のいい人に共通しているのは、文章の読解力が非常に高く、言葉選びも感覚的なものが殆ど無くて、スポーツにせよ、音楽にせよ、もちろん勉強にせよ。
非常に説明が具体的だ。
私のように擬音や感覚的な言葉をあまり使わない。
比喩を使うにしても、論理が破綻する事はない。

天才肌(タレンテッド寄り)の人達は、とにかく飲み込みが早い。
一度言われた事をすぐ自分のものにしてしまう器用さがあった。
こちらが、指導者に言われた事を1つ1つ噛み砕いて、身体に、もしくは脳に刷り込んでいる間に、彼らは数回で“その場は凌げる”レベルになっている印象だ。
私が見よう見まねで、ゴチャゴチャ考えながら真似しようとしている事を、彼らはなんなく出来てしまう。
彼らは、自分の中で言語化する前に、実用的なレベルまで行ってしまうので…彼らのアドバイスは参考にならない事の方が多かった。

高校の部活時代は、よく監督に
「ゴチャゴチャ考えるな!!素直に真似をしろ!!」
…と、言われていたが、指摘される要素が細かいほど、身体の使い方が解らず、そのまま身体にコピーさせる事が出来なかった。

私は確かにいろいろ出来て、とびぬけて苦手な要素って、あまりない。
…と言うか思い当たらない。
強いて言うならば、注意力が散漫な所だ。

与えられた初期のステータスは総じて平均以上なんだけど、そこから先の成長要素がショボくて、一軍のパーティーとして、戦闘要員にも回復要因にも、ステータス補完要因にも…どこにも選択肢には入らない様な…そんな扱いづらいBランクキャラみたいな感覚はすごくあった。


学業も、学校に行きさえすれば、授業中にグースカ眠っていても、窓の外を眺めて空想の世界に旅をしていても。宿題を全て踏み倒していても。
得点率50%代〜平均ちょい上はノー勉で点数取れる程度の立ち位置だったし。

(同じ様な態度の人の殆どは、高校を選べない状況にあったので、その点では知能指数自体は、平均に満たないと言う事は無いと思ってるが…)

体育にしろ音楽にしろ、美術にしろ。
少し真面目にやれば、上位は言い過ぎだが、クラスや学年の代表で選抜される程度の能力値ではあった。
そして、誰の目から見ても、詰めが甘い。
美術の先生に「センスはあるのに雑!!」と言われまくっているんだけど、ある程度カタチを作ったその先、どーも身体も思考も動かない。
細部に目をやると、頭痛とめまいが出てきてしまって、強い眠気に襲われる。

そこら辺は、現在、少しずつ改善か対策を実験段階なんだけど…。
相変わらずです。

……だけど、総合的に見て、やはり平均値なのだ。
能力として、何かが尖ってる訳でも、飛び抜けてる訳でもない。

そのくせ、口を開けば、平均的な人と噛み合う要素が何ひとつない。
自分と同じような能力値にいる人ほど、全く話が噛み合わなければ、お互いに理解が困難を極める状況だ。
平均値な能力をキープしている人達の話は、とても俗物的で、そう言うものに全く興味がなくて、何が面白いのかもよくわからない。
どちらかが、適当な部分で適当に合わせて、漸く会話が成立するような居心地の悪さや疎外感が常にがあった。

大人になってからは、俗物的要素は、うまく利用すれば、良い効果を得られる事を学んだ。

高IQっぽい人、天才っぽい人は、なんだかんだで相対評価的な要素が濃い学校生活の中で、小学生〜中学生…あるいは高校生の間に、常に誰にも負けない、同じ学年の中では、ブッ千切った、もしくは安定した1位を何かを持っていた。

もちろん、努力の量で上位争いになっていた人もいる。
私の中学では、そう言う人を”秀才”と言うのだと教えられた。
例えば、同学年の生徒会長なんか、典型的な秀才だった。
地頭もいいが、そこからの積み上げが、この上なく着実で、綺麗な理想的な秀才の姿だった。

一方で、私も運動部でゴリゴリ鍛えたせいか、いつの間にか体育の成績は元々運動神経の良い人達との争いに乗れるレベルにはなっていた。
運動面では、おそらく私も秀才の部類なんだろう。

勉強方面も、中学生の時は自分よりも頭のいい人とばかり一緒にいたせいか、彼らのレベルに及ばないにせよ、”なんだかんだ”な立ち位置から落とす事なく、志望校受験を止められなかった程度の成績はキープしていた。


だけど、天才っぽい人や高IQっぽい人って、そうじゃない。
もちろん彼らも努力はしているのは間違いないのだけど、明らかに努力や経験で得た何かとは性質が違っていた。
努力に泥臭さを感じないが、確かな質量はある…みたいな感覚だ。

高IQっぽい人で、思い当たるのは、学年でピアノが1番上手いと言われていたS君だ。
彼は結局、義務教育時代はテストの成績を学年1位をキープしていた。

地元の国立大学を志望した時には、同級生に

「S君、地元の国立受けるなよ!!私たち落ちるじゃん!!」

…と、めちゃくちゃブーイングされたらしい事を幼馴染が言っていた。

※幼馴染も、そのブーイングをした1人で、高校生時代、ちょっとだけ愚痴られた。学部違うけど。



S君とは違う高校だったので、高校での様子は不明なんだけど。
他の秀才達が、定期テストで少しでも良い点を取ろうと、休憩時間も使って予習や復習をしている中。
私はS君が、休憩時間に勉強しているのを見た事がない。
いつも友達とスマブラの話をしていた。
宿題も授業中に片付けているっぽいんだけど、先生に当てられると卒なくこなすし。
“解らないところ”だけを、抜粋して聞いている様子だった。
そして、たまに居眠りもしていた。
…堂々と…。

「家でめちゃくちゃやってるんじゃない?」
…とも思ったが、放課後は部活やったり、S君の家にはいつも友達が集まってゲームしている印象だし…。
しかも、ピアノもめちゃくちゃ弾けるし。
人は選んでる様子だけど、いつでも周りに人がいて、自分から仲良くなりに行くタイプだし…。
とにかく、どの学年になっても、勉強と音楽においては頭が何個分か飛び抜けているのがS君だった。

その癖、モノの説明をする時は妙に論理的かつ数学的だったり、物理的。
たまに行動が奇怪だ。

小学生の頃は、いつもセロハンテープをちぎって、ガムの様にクチャクチャ噛んでいた様な少年だ。

私の知る限りでは、高IQを疑う人として、真っ先に思い浮かぶのはS君だ。

私がよく一緒に居たのは”秀才”の人達の方ですが、彼らは「勝ちたいけど勝てねぇ!!」と、口々に言っていた。

そんなこんなで、”天才”、”秀才”なんかを見ていると、私は自分の天才説や高IQ説は、割と若い頃に疑い始めるわけだ。
しかし、他人によっては、頭がいいとか天才とか言う人は今でも何人かいる。

どう言う人に言われるかと言うと。
比較的、感受性の強い傾向にある人に言われる様な感じがある。

私の言葉を、少ない情報でキャッチして、背景や状況なんかを感覚的に嗅ぎ分けている様な…そんな傾聴の仕方をしている様な気がしていて。

そう言う言う人の中には、鋭い感受性を持った上で、高IQの人もいるのかもしれない。

HSPの特徴として、強い感受性と深い思考力と言うものがある。
これは、高IQの人と似た性質なんだが、高IQの人達は、集中の持続時間が長いらしい。

HSPは、外部から受けたなんらかの刺激を細かくキャッチして、その上で脳内処理を行い、言葉や内容を吟味して発言や行動するんだけど。
元々、刺激耐性が貧弱な為に、疲労しやすく、すぐエネルギー切れが起きるそうだ。

一方、高IQの人達は、刺激耐性は人並み〜人並み以上なので、HSPと比較して燃費がいい。

HSS型の特徴として、好奇心旺盛で行動的というものがある。
これも高IQと共通している部分。
だけど、これと同じく、刺激に弱いというHSP気質が邪魔をして、エネルギー効率を下げるわけだ。


後は、言語化能力。
おそらく高IQとHSS型HSPの性質、どちらも持つ人はいるのだと思う。
だけど、高IQの人の傾向として、言語を極めて論理的かつ具体的に瞬時に、客観的事実や仮定を組み立てて発言するので、説明にはある一定の説得力の様なモノを感じている。
抽象的な事の説明も、いちいち具体的だな…と思う。
こう言う人の話は、自分のボキャブラリーを増やしてくれるので、個人的にはとっても楽しい。

一方、HSPのような強い感受性で生きている人間はどうかと言うと。
感覚によるものは鋭いものを持っていたとしても、高IQの人達の様に、スルスルと論理的な語彙が出てくる訳でもなく…もしくはそこまでの語彙力を持っていないので、どこか抽象的だ。

言語化能力の乏しさに、地団駄を踏んできた。…と言う一言に共感してくれる人いる?


……自分の肌感覚をサックリ纏めてみたんだけど、的を射ているのかは不明。
高IQとHSS型HSPは同じかどうかと聞かれると、根本的に、思考や言語感覚や肌感覚のベクトルが全然違うよね。…と考察しただけの文章です。

ただ、高IQとHSS型HSPって似てるよね?と、感じてる人は一定数いる様だ。

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