金澤翔子

物語というしゃぼんだま

※ 金澤泰子さん、翔子さんから「写真を撮影していいですよ」とのお言葉をいただきましたので、こちらに掲載いたします。ありがとうございます。


天空を仰ぎしのちの静寂よ金澤翔子が筆もつまでの
/春野りりん


書家の金澤翔子さんが席上揮毫される姿に目頭を熱くしたのは、私だけではないようでした。
マイケル・ジャクソンの音楽に合わせてダンスを披露し、明るく屈託のない翔子さんも魅力的なのですが、筆をもつと一変して神々しいほどの威厳が備わります。
その瞬間、大きな会場の空気も別次元に移ったかのように変化したのでした。
天に祈り、天とつながって筆を執る翔子さん。
その姿は、そして翔子さんの書は、愛そのものでした。

これ以上行き場のない極限に立って、絶望の淵まで行き、違う地平に出会ったとおっしゃるおかあさまの泰子さん。
「最悪の中には、幸せや希望が含まれている、というこの世の仕組みをあの頃に知っていたら、私はもっと喜びを持って翔子を育てられたであろう。」
『ダウン症の書家・金澤翔子の物語 天使の正体』(かまくら春秋社)に
泰子さんの思いが綴られています。

闇の底まで降り、突き抜けて光に至ったひとの言葉は、命の重みをもって強く胸を打ちます。

「小学生だった娘の当時の状況を、なんて翔子はかわいそうなのだろうと思っていたけれど、実際につらかったのは自分であって、翔子はそんなふうになど思っていなかったのです。」
これは、泰子さんの講演会でまっすぐ心にひびいたエピソードのひとつです。

自分の尺度で他人を測ろうとしてしまうことが、さまざまな場面であります。
「あなたはこれができなくてかわいそうな人」とラベルを貼り、
「それは普通ではないからダメ、こうしなくてはいけないのに」と決めつけて 他人を自分の「正しさ」に引き寄せようとしてしまうこともそうです。
本当は、ひとはそれぞれにまったくちがう物語を生きていて、外からその物語を押しつけることなどできないのでしょう。

「あなた」と「わたし」がひとつの出来事を共有しているように見えたとしても、実際はまったく違った意味をもつ体験となっているのかもしれません。
自分がそれまでに積み重ねた体験や、自分が教えられ信じてきたこと、はじめから備わっている感性をもとに解釈を加えて、おのおのの物語に組み込んでいるのですから。

近年、多忙なひと向けにヘリコプターでの札所巡礼ツアーが用意されていると耳にしたことがあります。
ヘリコプター巡礼を選んだひとが、歩いて巡礼することを選んだひとに「時間をかけてもったいない!歩くなんてつらくて気の毒ね」と思っても、歩きお遍路さんが、価値観の違うヘリコプターお遍路さんを羨むことはないのでしょう。
それぞれが自分の道を選んで自分の歩を進め、ひとの歩みを尊重すればいいと思うのです。

もし、決められた道を決められたとおりに進むだけならば、はるか上から現れた大きな手に鷲づかみされて、ひと息にゴールへと連れ去られるのと変わりません。それでは、何のために身体をもってここに生まれて来たのかわからない
とも思います。

道に迷いながらも、ときに躓きながらであったとしても、気づきや僥倖に出会いながら「自分」を生きる体験ができるのは、なんと貴いことなのでしょう。

感覚も、大切にしたいことも、ひとそれぞれ。
同じ家族でも、また地球規模でも
感覚はひとりひとり違うもの。
そのままの相手も、そのままの自分も受け入れて
生きたいように自分を生きることをおたがいに尊重できたら、
世界はぐんと暮らしやすくなるのではないでしょうか。

「あなたはあなたの旅路の途中で、いま大切な体験をしているのね!
私もいま目いっぱい私の旅を体験しているよ!」
おたがいをこんなふうに慈しむ心持ちになれたら、ほかのひとに余計な口出しや手出しをすることが少なくなるように思います。


ひとりひとりの物語は、大宙に浮かぶひとつひとつのしゃぼん玉。
しゃぼん玉の中の世界は、外から見ても知りえないもの。
けれども、わからないままにわからないものを尊重すればいい。
たくさんのしゃぼん玉が そこここに漂っているから、
世界はこんなにも美しいのです。


そして、しゃぼん玉をぱちんとはじくように
本当はいつでも、自分の物語から自由になって
物語を超えた自分そのものに還ることができるとわかっていると、
どんな物語を生きることももっと楽になるように思います。


しゃぼん玉がはじけたら

なにもかも溶けあって

大宙には何もないのだから。


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