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MIMMIのサーガあるいは年代記 ―69―

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     第  五  章
    ― 紫水晶のあさ(2) ―

「桃子が外の様子を偵察にでかけるから、そのあいだここを守っていて。そのあとは二人交代で見張りをするの。わたしたちが一番元気そうだから」
 彼女についで負傷の軽いヘススという名前の、メキシコ人たちの中で一番若くて刺青が一番多い男に言いました。なんとか介助なしで動けるのは彼一人しかいません。

 桃子が立ち上がると、ヘススは腰裏に隠していたグロック17と弾倉一つを黙って差し出します。
「そんな物騒なものは必要ないわ。桃子にはこれで十分」と、錆びた大型のスパナを拾いあげました。
「これなら誰にも怪しまれる心配がない。銃撃戦になったら、ピストル一丁ではどうせ役に立たないもの」
 彼女はこう言ったものの、路上で錆びた大型スパナなんぞを、十六歳の少女が普通に持ち歩いていたら、怪しさはてんこ盛りでしょう。

 血と泥で色が変わった包帯を胸と両足に巻いたヘススは、うずくまったまま無表情で桃子を見上げるだけでした。負傷が軽いといっても、彼も憔悴しきっていました。
「あなたの名前のとおり、きっと神のご加護があるわ」と、ヘススの厚い胸板に彫られたキリストに向かって告げました。

 工場をから出るのを躊躇するように、彼女は負傷した仲間たちを振り返りました。停電で工場内に灯りはないももの朝陽の烈しい照り返しが、窓や天井の明かり取りなどから容赦なく横たわる負傷者の群れを露わにしていました。苛立たしい油蝉の鳴き声が焦燥感をつのらせます。

 彼ら彼女らは、傷の痛みに耐えているうえに疲労困憊して大型工具などの陰に横たわるばかりでした。
 一刻も早く救急措置が必要です。お婆さんを除く全員が被弾、骨折、火傷などを負っています。重いボディーアーマーと抗弾ヘルメットを着用して塹壕などから抗戦したとはいえ、全身を防護できるわけでなく、またボディーアーマーもすべての弾丸に抗耐できないのです。とりわけ全身火傷状態のガルシアを、集中治療室へ一刻も早く移送する必要がありました。

 この禍々しい情景を目にして、桃子はここ両日で自分がした過ち、つまり重大な判断ミスに、さらに一項目を追加してしまったことを自覚しました。秘密地下トンネルで出立するあたりまで桃子は、激しい戦闘とそれをなんとかしのぎきった興奮と高揚から意気盛んでしたが、冷静に考えるとここも決して長くとどまれないのです。また安全な場所でもないのです。

 蛸薬師小路たこやくしこうじ邸の秘密トンネル入口を爆砕してふさいでいたとしても、いずれ警察や国防軍によって発見され、ここの場所を特定されるでしょう。かといって、ここを離れて新たな隠れ家へ移動することも、新しい隠れ家を探すこともできないのです。
 また、あたり一帯の道路という道路はまもなく国防軍などによって封鎖されるでしょう。国道、県道、市道、農道にとどまらず、奥山の獣道まで捜索されるにちがいありません。なぜなら、敗残の傭兵たちがてんでの方向へ落ち延び、彼らを国防軍が消防団など民間人の協力を得て、一木一草をかきわける山狩りで敗残兵を一人ずつ駆り立てていくことは確実です。
 ですから、このような食品加工工場などは、一時しのぎにすぎないのです。

「お嬢様。これだけでも……」ナナミンが力なく半身を起こして、後ろ襟に隠していた棒手裏剣を床に滑らせます。
「ありがとう、だけどこれで十分よ」と、錆びたスパナを持ち上げます。
「神のご加護を」ドラム缶にもたれているエリカが、身につけている血まみれになった十字架に口づけします。
「そうね。それが一番必要なものね。だけど安心して、桃子がなんとかする。もうこれ以上、誰一人死にはしないし、傷付きもしないから」と、彼女は虚勢をはって微笑みました。かといって彼女に解決策は何一つ思い浮かんではいません。

 ……この一帯の工場団地内は閉鎖か休業の工場が多くありましたから、交通量はすくなく、またまとまった人数や営業車以外の自動車を見かけたらか警戒する必要があります。それはそれで、ある意味で敵味方の識別は容易にになるでしょう。
 彼女は、工場団地を南北に貫く幹線道路に至りました。この騒ぎのなかでも操業している工場の機械音に混じって、各種サイレン音が遠くで行き交っているのが耳につきました。
 それと、ヘリコプターのローター・ブレード回転翼羽根が大気を切り裂く煩わしい轟音。大型ヘリは三、四機の編隊を組んで蛸薬師小路邸の方へ次々と向かい、その上空には小型ヘリ二機が大きな楕円を描いて旋回しています。大型ヘリのCH-47 チヌークのうちには、車輌を吊して運搬しているものも見受けられます。
 小型ヘリは、上空から逃走している傭兵たちを探しているのでしょう。それと蛸薬師小路家の私兵や桃子たちも……。彼女はやっかいな偵察ヘリに発見されるのを避けるために、建物の濃い日陰や夏枯れで茶色に変色した街路樹の下を転々と縫うようにして大通りを進んでゆきます。

「Piss off,AA……assho~le!!」
 珍しく枝葉が青々と茂った一木の街路樹の下で、桃子は叫んでしまいました。
 突然の人間の接近に驚いた夏せみが、不埒にも彼女に小便をひっかけて飛び立ったからです。彼女はもう一度罵倒し中指をたてようと、飛び去った蝉を見上げたとたん、蒼空を侵す純白の雲の下に小さな動く黒点を発見しました。さらに注視すると、それは無人偵察機のようでした。
 偵察ヘリなどよりも精密な各種センサー、高倍率のカメラとレンズを備えた無人機が、地上を舐めるように隈なく探っているのでしょう。地上の大型モニターの前に座るナビゲーターたちは、すでに桃子を不審者として識別しているかもしれません。

 彼女はこう考えると、日陰から日陰へ移るという明らかに不審者めいた行動をやめて、堂々と歩道を歩くことにしました。大型スパナを肩に担いで。
 これなら、冷房のよく効いた部屋でモニターの前に座っているナビゲーターは、工場の従業員一人と彼女を見誤ってくれる、と期待したからです。
 左右に目を配りながら大通りを八百メートルばかり進み、食品加工工場を中心に円を描いて、彼女は偵察しました。この範囲では警察などによる道路封鎖や敗走中の傭兵の片割れなどは一切見かけませんでした。もちろん国防軍の部隊も展開していませんでした。

 しかし、桃子が周辺偵察を終えて仲間のところへ戻ろうと、工場裏の道路を進んでゆくと、裏門の近くに二台のマイクロバスが停まっているのを目にしました。マイクロバスは、大手製薬会社の社名を車体につけ、エンジンをかけたままで、窓はすべて白いカーテンで覆われ内部を窺えません。そもそもこの工業団地に中には、製薬会社や系列会社の工場はないのです。彼女は道の角隅から、不審なマイクロバスの様子を見守りました。

 もしかすると、ベンジャミンが指揮した傭兵部隊のほかに、『Y社』はあらかじめ別部隊を用意して補完する作戦を、はじめからしていた疑いも払拭できません。『Y社』がベジャミンの失敗に備えて保険をかけていたとしても、これまでの敵の周到さを考えあわせると納得できました。

 彼女が悩んでいると、先頭車からサングラスをかけた三人ばかりの男性が降り、周囲を警戒するように散りました。
 三人ともアジア系で、太い上腕が半袖Tシャツからはじけるばかりにはみ出し、肩の筋肉が盛り上がっていました。ありふれた市民やボディビルダーではあり得ない、厳しい視線を四周に放っていました。キビキビした動作と併せて、間違いなく軍隊経験者でした。ですが彼らは、全員半袖Tシャツ一枚にスラックスかジーンズという軽装で、火器を隠し持っている気配はありません。

 こんな三人を相手に、桃子独りと錆びたスパナーだけではどうすることもできません。
『Fuuuuuu~ck!!!』と心の中で叫び、空を見上げました。無人偵察機のナビゲーターか画像分析員が、注目してくれれば助かるかもしれない、という弱気な自分自身を罵倒したのでした。

 四人に続いて、まったく異なる中年男性が下車しました。彼は屈強な四人と違い、夏用作業服を着け、黒のビジネスシューズに白いカンカン帽という無茶苦茶な着こなしをしています。そして彼の身動きには、見知ったところがありました。

「Fuck!」
 桃子は思わず大声で叫んでしまいました。昨日の戦闘を経験した彼女は感情表現不足で、極端な歓喜も失望も怒りも罵倒もこの一語で表現していました。

 筆頭秘書の天野でした。お爺さんと上京していて連絡のつかない天野本人です。彼が今ここにいるのです。
 彼女は、禁じられた四文字単語を何度も繰り返し、嬉し涙を流しながら駆け寄りますが、屈強なアジア系の男が天野を後ろへ下げ、二人が桃子に向かおうとしています。天野が厳しい一言で、二人の動きをとめました。

 彼女も急に立ち止まり、腰を落としスパナを持ち替えて身構えました。
 ほんの二十分前に隠れ家を出る際に頭に浮かんだ自責感が思い出されたのです。『ここ両日に自分がした過ち、つまり重大な判断ミス』のことです。

 ――都合よく、ここに天野があらわれた? なぜ? 今? ここに? 工場街にふさわしくない服装の集団を従えて……天野は『Y社』とつながっているのでは? 裏切り者では? ――

 桃子は純真無垢でこれまでに他人を疑ったのは、ヒロコーがかつて蛸薬師小路家のどさくさを奇貨として小銭を稼ぐようなことをした一時いっときだけで、生来、他人を疑うという発想が端っから欠落した教育、成長環境でしたから、逆に疑惑の小さな火種が生まれると、溶鉱炉内のように巨きく成長してしまうのでした。

 桃子は、天野が従える屈強の三人を倒す術と、自分がおとりになって仲間の隠れ場所からこの男たちを引き離す方法を同時に考えていました。背後の灼けた路上に退路を求めて、肩越しににちらりと目をやると、もう一人屈強の男が立ちふさがっているではありませんか。
  (つづきますよ)

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