汝の敵を愛せよ、なんてことは言わないからさ。
根本的に、人は自分を愛するものなのだろう。最近恋愛のハウツー本などにもよく記載がある。まず自分を愛さなければ人を愛せないし愛されない、と。
結局自分しか愛せないのかもしれない、と言う友人がいた。彼女の話を聞いて私はとてももやっとしたし、少しいらっとした。今日は、その感情に向き合おうと思う。
この人とうまくいかなければ全部諦める、とそう言った相手との約束を反故にしようとして、その理由について、前の人に会ったから揺らいでいると言った彼女。
いらいらしていることに対して決して強くはない指摘をされて、そういうことされるの嫌いなんだよね、とてらいもなく言った彼女。
自分がいちばん、なのだろう。常からそう言っていた。
相手からすると、ただただもう振り回されている。それは勝手だし、我儘だ。我慢が足りないし、我慢しようとも思わないのだろう。
つい3日前ぜんぜんちゃうこと言うてたやん。
自分がいらっとしたこと許されたいんやったら自分も許しいや。
言えることはいくらでもある。糾弾するに事欠かない事案。
けれど実際私が言ったのは、下記のようなこと。
せやな、勝手やな。言うこと変わりすぎやし、相手気の毒やと思うで。
けどもう今更人間変わらんし、そうやってこと受け止めてくれる相手やないと、この先一緒にはおれへんねやろな。
しゃーないんちゃう。
彼女はきっと私に指摘なんて求めてない、というのがひとつ。なにを言ってもどうせ変わらないんだろう、というのがもうひとつだ。
私は彼女が羨ましいのだ。
そのままでいて、受け入れられる彼女。愛される彼女。あまりにも無邪気に、自分をいちばんだと信じられるその心が。
だから私はいらっとしたし、もやっとした。
けれども。羨ましいけれども、そうなりたいとは思わない。私は私でいい。私がいい。
いろんな我慢をして、相手の欲しい言葉を投げかけて、自分の感情をおして相手の感情に沿った反応をする私で。それが出来る、私がいい。
人の生き方は、往々にしてとても窮屈なものになりがちなのだと思う。特にこの、制限にまみれた社会の中では。
汝の敵を愛し許せ、なんてことは言わない。右の頬を打たらば左の頬を差し出せ、なんてことも言わない。
けれど頭の片隅にでも、そうする選択肢もあるのだという意識があれば、そうすれば世界はもっと平和になるんじゃないだろうか。
分からない。私は聖人君主ではないから分からないけども。自分を愛すために、そういう思考回路を持てる自分でありたいとも思うのだ。
自分しか愛せない、そんな人がいてもいいし、そんな人を愛すのもまたいいだろう。理不尽に思えるかもしれない。世の中なんて理不尽まみれだし、不条理まみれなのだから。
けれどひとつ言えること。愛は貴い。いかなる形であっても。
無条件に愛されなくとも、愛すことのできる私を、私は愛する。人を羨もうとも、妬もうとも、葛藤しようとも、それができる私を愛す。
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