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お茶でつながる「広州」と「博多」

広州や博多と聞いて、「お茶」を思い浮かべる人はそう多くないかもしれません。しかし、この二つの都市は、古来より栄えた港町です。中国を代表する貿易品「お茶」は、古来よりこの港町を大量に行き来し、それにまつわる文化を育んできました。

今回は、そんなお茶の歴史について、広州と博多の歴史もからめながらお話したいと思います。

◉文化を生み出す「お茶」の奥深さ

日本でお茶を飲む…。「緑茶」の渋みがたまりません。
イギリスでアフタヌーンティーを楽しむ…。上品な「紅茶」の香りが漂います。
そして中国でお茶を飲む…。ところが、中国では6色のお茶からどれかを選ばなければなりません。

中国では、お茶を緑茶、白茶、黄茶、青茶、紅茶、黒茶の6色に分けて分類します。茶葉の産地や種類だけではなく、発酵度や製法により細かく分けているのです。日本でもよく知られた烏龍茶や鉄観音は「青茶」の一種であり、普洱茶は「黒茶」の一種となります。

そして、その中で、日本に定着したのが「緑」のお茶で、イギリスに定着したのが「紅」のお茶ということになるのです。
これは、とても面白いことで、日本固有の文化である茶道も、イギリスを象徴するようなアフタヌーンティーの貴族文化も、元をたどれば6色のお茶が織りなす「茶文化」の大きな氷山の一角でしかないということを示しています。中国の茶文化が発展し、世界に広がり、他地域で愛され、定着し、地域の文化と結びつき、新たな文化を生み出していく…、そんな進化の過程が垣間見えるのです。

同じように世界中で飲まれている飲料でいえば「コーヒー」があります。コーヒーにも産地の違いがあり、焙煎方法の違いがあり、淹れ方の違いがあります。しかし、コーヒーはやはりコーヒーであり、地域によって淹れ方や飲み方の作法が確立し、地域文化として花開いたという話は聞いたことがありません。

「お茶」は、国や民族や時代を越えて人々を魅了し、文化を生み出すほどに奥深い。

実は、ここには、世界が歩んできた歴史が大きく関わっています。

ヨーロッパに最初にお茶がもたらされたのは、17世紀中期に最盛期を迎えていたオランダであり、それは東インド会社を通じて日本から輸出されてきた「緑茶」だったと言われています。

オランダでは、お茶の薬用効果などが注目される一方、飲み方については、日本の影響を存分に受けていたようです。当時上演されていた喜劇では、オランダの茶会の様子が表現されていて、そこでは、お皿に注いだお茶を音を立ててすすっていたそうです。これはおもてなしをしてくれた主人に対する感謝を表しているそうですが、その表現方法は正に日本の茶道文化を表面的に真似ていたものでしょう。

お茶は、この時から、既に単なる飲料の交易ではなく、喫茶にまつわる文化も含めた交易という形をしていたのです。

そして、その後、お茶はオランダからイギリスに伝えられます。日本の鎖国により交易の中心が中国に移ってくると、イギリスでは徐々に香りの強い紅茶が人気を博していくようになります。
また、その飲み方もイギリスのスタイルを確立していきます。お茶を提供する際、以前から親しみがあったミルク、そして当時の富の象徴でもあった砂糖を添えるようになるのです。高価な輸入品で彩られた贅沢な茶会は、イギリスを象徴する文化にまで昇華されました。

さらに、産業革命によるイギリスの国力増加は、上流階級への憧れとともに庶民にまでティー文化の広がりをもたらしました。お茶の需要は急増し、貿易量は増大します。そして、巨額の貿易赤字を抱えたイギリスは、最終的には悪名高い三角貿易にて中国にアヘンを売りつけ、1840年に中国にアヘン戦争を引き起こすまでになるのです。

お茶が、イギリス人の生活習慣を変え、それが固有の文化へと昇華し、さらにその文化が次の歴史を作っていく…。考えたらすごい力ですよね。

◉中国の喫茶文化

そもそも、お茶を最初に文化レベルにまで昇華させたのは、中国の唐代の文人・陸羽です。

喫茶の習慣自体は、中国四川省あたりで数千年前から広がっていたとされています。周王朝が中原の覇者として君臨していた頃、既に巴(四川省)の特産品として王朝にお茶が献上されている記録が残っているようです。

その喫茶の習慣が中国で本格的に広がり成熟期を迎えるのが唐の時代になります。

陸羽が登場し、史上はじめてお茶の専門書「茶経」を著し、お茶に関するさまざまな知識を紹介する一方、正しいお茶の煮方や飲み方を推奨しました。

当時は、新鮮な茶葉を蒸して酸化を止める「蒸青」という緑茶の製茶法が用いられており、さらにそれを型に入れて「餅茶」という固形茶の形にして流通していました。固形茶になったことは、お茶を中国各地へ運搬することを可能にし、喫茶文化を広げることに一役買いました。

また、固形茶の形で入ってきたお茶は、飲む際には薬研で粉末にしてから(末茶)、釜で煮て飲むことになります。陸羽は、最高の味が楽しめるようにと、こうした喫茶に必要となる道具や茶器も考案し、使い方だけではなく茶器製造の材料まで一つ一つ紹介しています。

この「茶経」は、その後の喫茶文化に、非常に大きな功績をもたらしました。これにより、お茶は、単に飲むというだけの生活習慣から、斬新で閑雅な喫茶様式として確立したのです。

◉博多にお茶が渡る日

唐代に喫茶文化が流行ったのには、もう一つ理由があります。

禅仏教との関わりです。
禅仏教は、とりわけ厳しい戒律を僧に課しており、特に座禅時の睡魔を取り払うため、カフェインによる喫茶の効用を利用しました。

禅宗自体は、南北朝時代に達磨が広州に上陸し中国に伝わってくる事になるのですが、実際に中国内で広がりを見せるのは、唐代から宋代にかけての時代になります。そして、喫茶の習慣は、禅宗の広がりと共に、中国中に広がっていく事になるのです。

そんな中、12世紀、博多から一人の僧が海を渡ります。

禅宗を日本に伝えた栄西です。

当初、天台宗の立て直しを志して中国へ渡った栄西だったのですが、当時、南宋の仏教界は既に禅宗一色となっていました。そこで、栄西は改めて禅宗を学びます。そこで、禅宗と共に、そこで活用されていた喫茶文化も学ぶことになるのです。

1191年、栄西は博多に帰国しました。
そして、日本で最初の禅寺である聖福寺を博多に創建します。

この時、栄西は、座禅の時に必要となるお茶も持ち帰りました。栄西は、中国から持ち帰ったお茶の種子を佐賀県脊振山に植えて栽培を始めたと言われています。さらに、1211年には喫茶の効能や製法について「喫茶養生記」にまとめ、時の将軍である源実朝に献上しました。

禅宗は、その後、日本にも浸透し、同時に禅宗を学んだ武士階級により喫茶習慣が広がります。こうした背景のもと、16世紀に千利休がその喫茶習慣を「茶道」という日本固有の精神文化の域まで高めることになるのです。

◉広州と飲茶文化

中国では、明の時代に、喫茶習慣に大きな変化が訪れます。

粉末状の末茶ではなく、茶葉をそのまま茶壺(急須)で淹れて飲む習慣が流行し始めるのです。それに伴い、お茶の製法も、茶葉を蒸して製茶する方法から、釜炒り製茶方法へと発展を遂げました。

そうなってくると、その後の加工工程として、茶葉の発酵度合いの変化によって、異なる味わいのお茶が作られるようになり、更にそれぞれの製法に最も適した茶葉の開発が進んできます。

明代に中国茶は大発展を遂げるのです。
ここから、清代までの時代で、冒頭で紹介した茶葉の体系はほとんど完成したと言われています。

一方、日本には、江戸時代に末茶ではなく茶葉からお茶を飲むという習慣は伝わってきたものの、製法の変化をもたらすまでには至らず、そのまま蒸す製茶法が引き継がれています。

なお、中国の茶の産地は、中国の南方に集まっており、地方ごとに様々な特色を生んでいます。

清王朝は、日本同様、海禁政策をとっていましたが、その中でも唯一交易が認められていたのが広東省の交易都市・広州になります。中国中のお茶がここに集まり、ヨーロッパと交易を行いました。

そのため、お茶の代価として販売されたアヘンもここから密輸されることになり、1939年に欽差大臣として派遣された林則徐はこの地でアヘンを処分してイギリスと対立する事になるのです。

広州は、今でも「食は広州にあり」と言われるほど美食の都市ですが、その特徴の一つとして「飲茶」料理があります。
朝から、点心といわれる蒸籠(せいろ)に小分けにされた料理をつまみながら、のんびりお茶を飲んで時間を過ごすという飲茶の習慣は、この地方独特のものです。

今でも広州のレストランに入ると、最初に「なんのお茶にするか?」と聞かれます。そして、その日の気分によって、お茶を選んで飲む。広州では、今でも喫茶が地域の飲食文化の一部として、重要な要素を形成しているのです。


さて、このようにお茶にまつわる話は、今の世界を形成してきた歴史や文化や宗教などの話が欠かせません。

福岡にも、「八女茶」という地域の有名ブランド茶があります。
陸羽からはじまり、栄西と共に博多に渡ってきた茶の流れの先に、福岡があります。

そして、明の時代に多品種化を遂げ、イギリス人を魅了した中国茶の流れの先に、今の広州もあります。

どうですか?
目の前に置かれたお茶の一杯に、人々が培ってきた歴史や文化を感じませんか?


福岡広州ライチ倶楽部では、2021年4月18日(日)17時〜18時まで、広州の高級茶館から「広州まちかどセミナー」を生配信で行います。

こうしたお茶がつないできた博多と広州の話を前座として、現場からは、高級茶芸師から中国茶、特にプーアル茶の魅力について語ってもらう予定です。

お茶を研究する人が、最後に辿り着くのが「プーアル茶」。
プーアル茶は、同じ品種を同じ環境で育てても、山が違うと味が変わるそうで、その理由は今でも謎とされているそうです。面白いですね。

今回のお話で、お茶に興味を持たれた方がいらっしゃいましたら、是非とも参加してみてください!

《参考文献》
「茶の歴史 緑茶の文化と紅茶の社会」 角山栄著,2017年,中央公論新社
「中国茶・五感の世界 その歴史と文化」 孔令敬著,2002年,日本放送出版協会
「香りを楽しむ 中国茶の事典」 2002年,成美同出版

第3回広州まちかどセミナー案内

《 ライチ局長の勝手にチャイナ!vol.9 》

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