私は冬と話すために。

私は冬と話すために。


 また春になりました。
 いつもより多くの人々が前を向いているようです。
 私が過ごすこの町では、今年もまた風が吹き、春がはじまります。春の風は私にとっていつまでも昨年と同じ春の風なのです。
 人々の士気を高めていく新しい春の風に悲しくなってしまいます。私が春になると思い出す勇気はそんな言葉を手紙に書き記すことなのです。
 それでも春そのものは知っていてくれることでしょう。春が作り出す風に置いていかれても、ついて行くことができなくても、春そのものは私の勇気を何度でも新鮮な気持ちで聞いてくれることでしょう。
 春によって何がはじまったのでしょうか。それは予感です。繰り返す日常の悲しみに現れる蕾です。
 冬の寒さが心を包んでいた頃、私はこの町で花の写真を撮りました。椿や薔薇の花が咲いていました。梅や木棉の花はこれから迎え入れる季節に囁いていました。私は花の声を聞き入れてから、今年こそ春の風を迎え入れようと思っているのでした。
 しかし、やはり、それでも私は春の風が吹き上がる地で悲しみに暮れていてもいいのではないかと信じています。
 駅前のコーヒーチェーン店では何人もの新人アルバイトが目まぐるしい日々を始めていることでしょう。私は誰を待っているわけでもなくいつも同じ席にいます。私は春に吹く風ではなく春そのものになりたい。あなたはいつまでもそこで待っているから。私だっていつまでもここで待っていたい。春が春の風を見つめるように、私は私の予感を見つめていたいから。
 でもね、私は窓際の席から半袖の子どもたちを眺めているし、アイスコーヒーを注文しているんだ。
 あなたはどうだろうか。待ちきれずに進んでしまうことがあったのだろうか。私は風に吹かれたあなたを知りたい。そういった意味では、季節は迎えに行くものでいいのかもしれない。
 私の怒りが私に読ませた昨晩のことを話します。私は安楽死推進派です。そして反出生主義者です。安楽死制度の実態が書かれた本と反出生主義の哲学者の本を読んでいました。確かにこの本を読む原動力は怒りでしたが、なぜこの本は私の手元にあったのでしょうか。それはお守りだからです。怒りの原因は私自身の病気です。誰のせいでもない病気で生まれた誰にぶつけることもできないこの怒りを鎮めてあげるためのお守りです。今年も春からこぼれ落ちた人々がいるように、私の支持するものが常識へと変わった時、一体どれほど、どのような人々が悲しい日々に襲われてしまうのだろうか。若葉を摘み集めて作ったお守りに罪はあるのだろうか。
 どんな疑問を抱えていても私はあなたのお守りを信じるだろう。祈りを捧げている時の暗闇と沈黙において、私はあらゆるお守りの罪を許すだろう。
 立ち止まっていても、歩いていても、暗闇と沈黙の中では全ての罪が許されてほしい。春の中で、病人は己の道で、そう思った。

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