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【現実】映画『私のはなし 部落のはなし』で初めて同和・部落問題を考えた。差別はいかに生まれ、続くのか

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私にはどうしても、同和・部落問題が理解出来ない。映画『私のはなし 部落のはなし』から、長く続く差別の実態を知る

「面白かった」という表現が適切ではないタイプの作品だと理解しているが、「興味深かった」という意味でとても面白い作品だった。上映時間は205分とかなり長く、観るのに少し躊躇したが、観て良かったと感じられた作品だ。

「私には理解不能としか言いようがない部落差別」とは、一体何なのだろうか?

「部落差別」や「被差別部落」という言葉を初めて知ったのがいつだったのか、正確には覚えていないが、恐らく最初は学校の授業だったんじゃないかと思う。そしてその時はたぶん、何も考えていなかった。というのも、私が知らないだけかもしれないが、私が生まれ育った地域には恐らく、そういう問題が存在しないはずだからだ。だからそもそも、問題そのものが上手くイメージ出来なかったのだと思う。その後現在に至るまで、どういう形で「部落差別」「被差別部落」という言葉に触れてきたのかも覚えていないのだが、断片的に何か新たな知識を得る度に、「意味不明な問題だな」と感じてきたのである。

映画を観る前の時点で私が知っていたのは、通り一遍の知識でしかない。江戸時代に「穢多非人」の身分だった人たちの子孫が今でも差別を受けていること。そういう方々がまとまって住む「部落」と呼ばれる地域があり、昔から屠殺や皮革業など、一般的に「誰もやりたくないと感じる仕事」を引き受けていた(押し付けられていた)こと。私が知っていたのはこの程度のことだ。

穢多非人の身分は、1871年(明治4年)に“表向き”廃止された。250年以上も前のことである。もちろん、今まさに争いが激化しているイスラエルとパレスチナのように、どれだけ時間が経とうとも解決されない問題はあるわけで、経過した時間の長さなど関係ないと言えば関係ない。しかし正直なところ、私は部落差別に対して、「祖先が穢多非人だったから何なの?」みたいにしか感じられないため、そんな「差別」が現代に至るまで250年間も続いているという事実に、ちょっと驚愕させられてしまうのである。本当に、まったく意味が分からない。

さて、私はそのような状態で本作『私のはなし 部落のはなし』を観た。そして、「納得」などという状態に達したわけではもちろんないものの、少なくとも「今まで理解できなかったこと」が少しは解消されたと言えるだろうと思う。私のような素人でも十分理解できるくらい、その背景的な部分がかなりきちんと描かれている作品だと感じた。

しかし、この記事を読んでいただく上で注意してもらいたいことが1つある。それは、「これから私が書く文章はあくまでも、『映画を観て私が解釈したこと』に過ぎない」ということだ。非常にセンシティブな問題であるし、また、「部落差別が未だに続いている」という事実を踏まえれば、「『そういう差別を良しとしている人』が世の中にはたくさんいる」と考えるのが妥当だろう。となれば、私とはまるで異なるものの見方をしているはずだ。そういう人には恐らく、この記事は馴染まないと思う。タイトルにある通り、この記事はあくまでも「私のはなし」でしかないのである。なので、「私が書いた文章」だけから映画『私のはなし 部落のはなし』の内容を判断することだけは止めてほしいと思う。

さて、映画の内容に触れる前に、私自身の「部落差別」に対するスタンスについてもう少し触れておくことにしよう。

まず私は、「目の前にいる人が『被差別部落出身』だと知ったとして、それだけを理由に差別感情を抱くことはない」と考えている。ただ、あくまでもこれは「予想」でしかない。というのも私はこれまで、「あの人は被差別部落出身だ」と誰かに言われたことも、「私は被差別部落出身です」と自ら口にする人と出会ったこともないからだ。それどころか、生まれ育った場所やその後住んだいくつかの地域を含め、誰かから「あの辺りは部落だ」みたいに聞かされたことさえない。だから、「実際にそういう人に出会った時にどういう反応になるかは正直分からない」というのが正直なところだ。ただ一方で、「何の知識も思い込みも先入観も無いのだから、差別感情を抱きようがない」とも考えているのである。

さてもう1つ。部落差別に限らない「差別」全般に関しての話にも触れておこう。

私は基本的に、「どういう人に対しても、特段『差別感情』を抱いていない」という自覚でいる。LGBTQや障害者など、一般的に「差別感情を向けられやすい人たち」に対しても、単に「LGBTQ/障害者だから」という理由で差別意識を持つことはないと考えているのだ。もちろん、個別に誰かを嫌いになったり疎ましく感じたりすることはあるが、それは別に「LGBTQだから」「障害者だから」というわけではない、という意味である。

ただ一方で、「『差別感情を抱いていない』という自覚」の恐ろしさについても認識しているつもりだ。「差別感情」は「本人が自覚できるもの」ではなく、「それを向けられた人が感じ取るもの」だと私は理解している。なので、私が「差別感情など抱いていない」と「自覚」していても、そんな私に対して「差別感情を抱いている」と感じる人がいてもおかしくはないと考えているのだ。

作中には、兵庫県の食肉センター長が、

差別意識を持っているという自覚を持つことが大事なんや。

と口にする場面があるのだが、まさにその通りだと思う。

そんなわけで私は、「差別感情を持ってはいないはず」と思いつつ、同時に、「必ずしも、他者からもそう見られているとは限らない」とも考えているというわけだ。これが、この記事を書いている私の「現在地」であり「大前提」である。この辺りのことを理解しつつ、この記事を読んでいただけるとありがたいと思う。

まずは問題を「差別する側の人間」の性質で分類する

さてまずは、「差別する側」の分類から始めたいと思う。これは、私が抱く「部落差別ってマジで意味が分からない」という感覚をより適切に理解してもらうために行うものだ。「差別する側」を分類することで、状況が少し見えやすくなるだろう。

「部落差別」に関して、「差別する側」が持ち得るだろう性質を、私は以下の3つに分類したいと思う。

①そもそもあらゆることに対して「差別感情」を抱いている人(対象は「部落差別」に限らない)
②「人間という存在」に関して、「血の繋がり」を特段に重視している人
③その他の人(①でも②でもない人)

そして私はこの記事において、①と②の人を除外して考えようと思う。ではこの辺りの話から始めていこう。

まず①の人について。彼らはとにかく、「理由に拘わらず、他人を差別したい」というマインドの人である。動機は様々だろう。「誰かを貶めること」によって「自身の全能感」みたいなものを感じたいのかもしれないし、あるいは、「誰かを貶めること」でしか自分を上手く肯定できないのかもしれない。こういう人にとっては、何か「それなりの人数が共感してくれるだろう理由」があれば、差別感情を向ける対象は誰だっていいのだろう。そして、こういう人のことを「部落差別」の問題と併せて議論するのは無駄なので、この記事では除外したいと思う。

②の人を除外する理由は、「時間の問題」だと考えているからだ。洋の東西を問わず、「血縁」は常に重視されてきたと思うが、昔と比べれば、今の日本ではそのような感覚はかなり薄れていると言えるのではないかと思う。もちろん、都市部と地方とではまだ大きな差はあるだろうし、あるいは、いわゆる「上流階級」みたいな世界ではまだまだ血縁が重視されている印象もある。ただやはり、「血の繋がりが云々」みたいに言っているのは主に年配の人だと思うし、若い世代になればなるほどそういう感覚を持つ人は少なくなるはずだと思う。

作中では、「結婚差別」について触れられる場面がある。本作には、実際に部落出身だという若者が顔出しで登場し様々な話をするのだが、彼らはやはり、恋愛や結婚に際して「部落出身」であることが障害になる経験を有している。ただその話をよく聞いてみると、「相手の親から反対された」という話ばかりで、「部落出身であることを理由に、付き合っている本人から拒絶された」という話はほとんどなかった。作中では1人だけ、撮影時50代だった女性が、自身が若い頃に付き合っていた人に「部落出身」だと告げたら、それを理由に恋愛を解消されたという話をしていたのだが、語られていたのはそれぐらいだったように思う。

結婚の際に「部落出身」かどうか気にするというのはやはり、「一族に部落の血が混ざること」を嫌悪していると考えていいだろう。そして、「相手の親が反対するだけで、付き合っている本人は部落出身であるかどうかなど気にしない」という状況の方が多いとすれば、時間経過と共に「結婚差別」は少なくなっていくはずだ。であれば、「血の繋がりが云々」みたいなことを言っている人たちについても、あまり深く考える必要はないだろうと私は判断した。

このように①②の人たちについては、「確かに問題ではあるが、考えても仕方がない」という意味で、議論の対象から外している。そして私がこの記事の中で議論したいのが、③の「その他の人」である。①②を除外しているのだから、この③の人たちというのは、「差別感情を基本的には抱くことがないし、『血の繋がり』を特に重視しているわけでもないが、『部落』だけは許容できない」タイプというわけだ。そして私には、こういう人たちが「部落」の一体何を忌避しているのか、どうしても理解できなかったのである。

私が抱く「理解できなさ」を、もう少し具体的に説明する

さて、この③の人に対する「理解できなさ」を、もう少し具体的に書いていくことにしよう。

本作に登場する80代ぐらいの男性が、かつて近隣の住民に次のような話をしたことがあると口にする場面がある。

俺の背中に「部落出身」って書いてあるか? ないじゃろ。だったらわからんじゃろ。

本当にその通りだと思う。私が抱く疑問は、主にこの点に集約されていると言っていい。

さて、この点を深堀りする前に、まずは映画を観る前の時点での私の認識に触れておこう。私は「『部落出身と見做されるか否か』は、『両親(のどちらか)が部落出身であるかどうか』で判断される」のだと思っていた。つまり「『血の繋がり』こそが『差別の対象か否か』を判断する要因」だと考えていたのである。

しかし映画を観ていて、どうもそうではなさそうだと感じる場面があった。大阪府箕面市には北芝という地域があり、そこはどうやら「部落」なのだそうだが、作中にはその北芝出身の若者3人が話す場面がある。そしてその内の1人が、

生まれたのは箕面市だけど、その後北芝に引っ越してきた。北芝に住んでいたことがあるから、自分も差別されるのかな、と。

みたいな発言をしていたのだ。彼は母親に「何故北芝に引っ越すことにしたのか」と聞いたことがあるそうだが、母親は「なんか便利だから」程度の返答だったという。それ以上詳しくは触れられなかったが、恐らく、「親族の誰かが北芝出身だったから」みたいなことではないのだと思う。しかしそれでも、「部落とされる場所に住んでいたことがある」という事実が「差別の対象になるかもしれない」という恐れを引き起こしているというわけだ。

さてそうだとすれば、「血の繋がり」の問題ではないことは明らかだろう。まあそれは、ちょっと考えてみれば当然の話ではある。「血の繋がり」など、外見から判断できるはずがないからだ。そしてだからこそ、「部落地域に住んでいるか(住んでいたか)」という、外から見て判断できる要素が「差別」の基準になっているということなのだと思う。

この辺りの話は、京都市の元職員の話からも理解できるだろう。

後で詳しく触れる話だが、「部落差別」の問題に対処するために政府は、1969年に「同和対策事業特別措置法」を制定した。政府は「部落」を「同和地区」と言い換えたのだが、この法律は要するに「部落出身の人たちの生活改善の手助けをしよう」という目的で制定されたものである。制定後の33年間で、16兆円の公金が使われたそうだ。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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