見出し画像

【信念】水俣病の真実を世界に伝えた写真家ユージン・スミスを描く映画。真実とは「痛みへの共感」だ:映画『MINAMATA―ミナマタ―』

完全版はこちらからご覧いただけます


水俣病を世界に伝えた写真家ユージン・スミスの生き様から、「事実」が「真実」に変わる瞬間を知る

私はそもそも、「水俣病が世界に知られる上で大きな役割を果たしたアメリカ人写真家」の存在さえ知らなかったので、映画を観てまずその点に驚かされた。一応、ユージン・スミスの最高傑作の1つである「入浴する智子と母」は、以前どこかで目にしたような記憶がある。美しさもさることながら、その写真1枚で現実の悲惨さを如実に伝える力を併せ持つ作品だと感じた。

この映画では、水俣病そのものについては詳しく描かれない。基本的にはユージン・スミスについての物語だ。ただ、水俣病を引き起こしたチッソ株式会社についてはかなり描かれる。どうやら、ユージン・スミスが来日した時点で、既に国内では問題視されていたようだ。裁判も開かれ、市民による反対運動も行われていた。しかしチッソ株式会社は、そんな動きなどどこ吹く風、「賠償金を払えばいいんだろ」という態度で操業を続けている。なんと、水俣病が初めて確認されてから15年間も、なんの改善もしないままだったという。

今の時代なら考えられないだろう。そして、当時それが可能だった理由の1つが、「水俣病が世界の注目を集められなかった」ことにある。国内では知られた問題だったが、諸外国にまで情報が届いておらず、それを良いことにやりたい放題やっていたというわけだ。

そういう意味でも、ユージン・スミスの関わりは非常に重要だったと言えるだろう。

現代では、「SDGs」や「ESG投資」などの呼びかけにより、環境問題や社会課題を無視した経営が非常に難しくなっている。水俣病の頃と比べれば大分マシになっていると言えるだろう。しかしそうだとしても、「公害」がゼロになることはない。福島第一原発事故も、「人災による公害」と言っていいだろうし、この映画のエンドロールでは、世界中でかつて引き起こされた公害の実例が写真つきで紹介されてもいた。

水俣病のような公害は今後も起こりうる。そう考えて、社会や企業に向ける目を厳しくしていくべきだろう。

ユージン・スミスは、いかにして「事実」を「真実」に変えたのか

この映画では、ユージン・スミスの「報道写真家」としてのスタンスの変化が、「水俣病」が世界に知られるまでの軌跡と連動している点が非常に面白いと思う。

今は大分変わっただろうが、一昔前の「報道」は、被害者さえも問答無用で傷つけていくようなものだった。「報道被害」などという言葉が生まれるほど、「被害を伝えるはずの報道」が「被害を生む側」になってしまっているという矛盾を内包するものだったと思う。

ユージン・スミスの「報道」に対する当初のスタンスも、近いものがあると感じた。彼が写真を撮る際の哲学について具体的に触れる場面は少ないが、

アメリカの先住民族は、カメラは被写体の魂を奪うと信じていた。
しかし、実際はそれだけじゃない。カメラは、撮る者の魂の一部も奪い取るのだ。
撮る側も、無傷ではいられない。

感情に支配されるな。
そうしないと負けだ。命さえ落としかねない。
何を撮るか、何を伝えるのかに、ちゃんと集中しろ。

みたいなことを映画の中では口にしている。これらの言葉は、

「写真を撮るという行為」は、自分自身も傷つける。しかしそれでも、撮るべきものを撮れ。

と要約できる。もっと言えば、「”痛み”に鈍感になって被写体を追え」ということだろう。

実際、冒頭からしばらくの間、ユージン・スミスはそのようなスタンスでカメラを向けていた。それを察した、ユージン・スミスの通訳を務めるアイリーンが、「あなたも共感を示して」と注意するほどだ。つまりユージン・スミスは、「水俣病に苦しむ人々」を単なる「被写体」としか捉えていなかったのである。

しかし映画では、明確にある瞬間を境にして、彼のスタンスが劇的に変わっていく。「”痛み”に寄り添いながらシャッターを切る」という方向へと舵を切ったのだ。そのことが、後に「フォトジャーナリズム史に残る傑作」と評される写真に繋がっていくことになる。

ユージン・スミスの時代と比べると、現代は遥かに「カメラを向けることで、目の前の人・現実を『被写体』にする行為」が容易になった。誰もがスマホを持ち、何かにカメラを向け、様々な物事を記録していく。

しかし、シャッターを押して記録されたものがすべて「真実」になるわけではない。基本的に、カメラに記録されたものは、単なる「事実」でしかないのだ。

私が思う「事実」と「真実」の違いは、「『事実』は認めるもの」「『真実』は信じるもの」という点にある。リンゴを撮ったとして、「そこにリンゴがある」というのが「事実」、「このリンゴは農家によって大切に育てられた」というのが「真実」だ。だから、事実は基本的にたった1ちうだが、真実は人の数だけ存在すると考えている。

写真で撮るだけでは、それはただの「事実」に過ぎない。それが「真実」に変わるためには、「信じたい」という気持ちを湧き起こさなければならないし、そのためには撮る側が「これを伝えたい」という気持ちを強く持っていなければならないだろう。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

ここから先は

2,691字

¥ 100

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?